Island Life

< ピアノレッスン129回目 / 3周年 | リストを交互に分配 >

2014/05/17

ローコンテクストな会話をするためには、何がコンテクストかを知る必要がある

「空気を読む」のは日本人だけじゃないよ(参考1,参考2)とか、 国語の「登場人物の気持ち」は重要な設問だよ (参考3,参考4)といったことをこれまでも書いてきたけど、それに関連する話。

「グローバル」化が進むと、これまでの日本文化の「空気を察する」という ハイコンテクストな会話は通用しないから、 国語で「登場人物の気持ち」を考えさせるよりは、 ローコンテクストで論理的な表現の読み書きを教えた方がいい、という意見がある。

確かに、(今は変わっているかもしれないが)私が受けた国語教育は、 文学的な読みと、言語による表現の基礎という要素が同居していて、 しかも前者に重きが置かれすぎている印象があった。 これについては、両者を分離したうえで、 言語による表現は(いわゆる文系/理系といった)進路にかかわらず 基礎的なスキルとして教えたらいいんじゃないかと思っている (参考5)。

ただ、文学的な読み以前の、コミュニケーションの基礎技術を教えるにあたっても、 『空気』で あげたような教育は重要だと思うのだ。

ここを誤解する人がいるようなんだけど、ポイントは「空気を読むことを教える」ことではない。 「私たちは、多かれ少なかれ、何らかの空気を読んでいる」という事実に 早いうちに気づかせることである。 (アスペルガー症候群のように「空気を全く読めない」性質を持っている人であっても、 「周囲の人間は空気を読んでいる」という事実を知っておくことは有用だろう)。

ローコンテクスト、つまり「空気」を共有しない会話をするためには、 まず自分や相手が依拠している「空気」が何かを知る必要がある。 しかし無意識のうちに「空気」を読んでいる人は、自分が何を暗黙の前提として 話しているのか意識できないだろう。また、「空気」が一種類しかないと 思っている人は、相手が「空気」を読めてるか読めてないか、で判断し、 相手が自分とは違う「空気」に依拠しているとは思わないだろう。

必要に応じて、会話における「空気」の共有量=コンテクストの量を調整したり、 相手の「空気」についての仮説を立てて動的に調整したり、というスキルは 「空気」の通用しない相手と会話をする時にこそ、必要になるのだ。

別の文化に移住する経験、例えば日本で育ってアメリカで働き始めたりすると、 空気の通じなさを思い知って自ずと気づくことになるのだけれど、 ネットを通じて誰もが異文化圏と直接接する機会がある現代では、 複数の文脈を意識することを基本的なリテラシーとして教えることは むしろ重要になっていると思う。

(なお、「空気を察する」ことと「それに合わせる」ことは別問題である。 日本で「空気を読む」と言った場合、「合わせる」ことも含意するので 話がややこしくなっているのだが、 これも「一種類しかないため、分けて考えられない」例だと思う。)

Tags: 文化, 表現

Past comment(s)

yamasushi (2014/06/29 11:00:41):

わたしは昔から空気を読めない人間でそれが病気なのかどうかはわかりません。空気を読めるひとがうまく学校化した社会の階梯を順調に登っていき、空気の読めないひとは相当の能力がなければ学校化した社会では、いじめられる側になり精神を病みます。(うまく空気を読めればいじめる側になるか、いじめられない工夫ができます。) わたしは欝になりましたが「病気を作っている」とか「昔からお前は弱い」とか言われたりしました。ひどく傷つくのですが空気を読めないのでそれを伝えることはできないのです。したがって空気を読めない人間の苦しさは空気を読めるひとには理解してもらえないのかと、いつも思っていますが、この記事を読み、永久に理解されないのかとも思いました。空気の問題といじめの問題は不可分です。これは内藤朝雄が指摘しているとおりで、いじめられる側は空気を読もうとして失敗しつづけ、その失敗して苦しむさまをいじめる側は見て消費するのです。

yamasushi (2014/06/29 11:23:30):

自分の苦しみについての文章を書くとうまくまとまらないので申し訳ないですが、補足しておきます。空気の読めないひとにとっては給料を払わない会社にいることでさえ重要な要素です。空気を読めないので転職が困難だからです。ですから一度入った会社から抜けられない。空気を読む文化について考えるときに、思いだすのは、「空気を読めない俺が働けるのはここだけだ」と言い聞かせながら会社にいった日々です。そこで仕事が失敗したときには完全に自分を否定し、自殺まで試みました。それくらい空気を読めない性格というのは苦しいのです。そういうコンテキストも存在するということだけコメントしておきます。

shiro (2014/06/29 21:48:08):

このエントリの趣旨は、普通に空気を読んでいる人が、「自分はこういう空気を読んでいるのだ」と意識的になることで、空気を共有しない人(空気を読めない人も含む)とのコミュニケーションがやりやすくなるのではないか、ということです。

空気といじめの問題は、空気を読める側がそのことを当然としているから生じているのではないですか。yamasushiさんの苦しみがどういうものか、深いところまで理解するのは私にはできないかもしれませんが、周囲の空気を読むことについての認識が変わることで状況が変わったりはしないでしょうか。

yamasushi (2014/07/01 07:35:56):

人生なにがあるかわからんものですから、どうなるかは未知数ですけど、コミュニケーションの構造についてはゲーム理論の入門書で学びました。つまり「戦略空間」なのです。そういう風にしかコミュニケーションを捉えられないです。 ですから、発信した情報は全てシグナルかスクリーニングなのです。どうもうまく表現できませんが、わたしは生まれたときから外国にいるような感じなので。(ですから、言葉については非常に敏感です。)


発端は空気の読み方を学校で教える話でしたが、内藤氏が提唱するように空気を読まなくても市民として最低限の教育を受けることができる制度「教育バウチャー制」のほうがありがたいです。(わたしは手遅れですが。) まあ・・・・夢のような話です。


空気の読み方のトレーニングなんて空気が読める人は普通にできるわけだし、読めないひとは教科書道理にできても、微妙なずれを検知され笑われる・・・そういうものです。

たとえば、わたしは中学のころ基礎英語を購読していて、英語を家で練習していました。その成果を学校で試すと笑われました。それ以後、英語はできなくなりました。空気を読めない人間にとって、学校というのは学習機会を奪うシステムなんです。


(内藤氏は英語でも発表しているのでgoogle scholarでググればそれなりに言説は出てくると思います。ijimeという英語があるくらいですから。

shiro (2014/07/01 09:31:05):

yamasushiさんは私が一連のエントリで既に前提としていることを繰り返しているように私には見えるのですが(従って何を議論したらよいのかわからない)、もうちょい議題を絞り込めますか?

shiro (2014/07/04 06:20:59):

念のため補足しておきますと、コミュニケーションが「文化的なプロトコルを使った戦略ゲームである」というのは大前提です。そのこと自体は良くも悪くもありません。単なる事実ですし、そういうふうにコミュニケーションをとらえることに引け目を感じる必要もないと思います。

ただ、現状、コミュニケーションの背景や技術について教えられる場所がほぼ無いため、(1)「自然に」コミュニケーションできる人にとってはコミュニケーションを相対化する機会がないため、「できてあたりまえ」と思い込んだり、自分の持っているプロトコルを唯一のものと考え、それに載らない人を排斥しがちになる、 (2)自然にコミュニケーションできない人にとっては、周囲がどういう規則で動いてるのかさっぱりわからなくてついていけない、という不都合が生じています。

一連のエントリでは、コミュニケーションを相対化して考える機会を作れば、(1)(2)両方の立場の人にとって役に立つだろう、という流れを議論しています。

なお、演技のクラスではコミュニケーションのゲーム構造についての分析もやります。「自然に」出来ると思っている人も、自分の想定するルールから離れた場でうまくできるとは限りません。空気の読み方なんて学校で教えなくても自然に云々、と言ってる人はよっぽど優れてる自覚が無いか、コミュニケーションの難しさを知らないか、だと思います。

yamasushi (2014/07/05 09:44:06):

論点の整理をありがとうございます。私の抱えてる問題点は(わたしにとっては)複雑にからみあっているので、一番根本にあることをまず挙げると、「学校」というシステムそのものに対する強烈な嫌悪感があります。(これについては、shoroさんにとっては問題ではないのかもしれません。)地方の学校では部活動をするのが当たり前で、部活動ではわけのわからない空気を読みながら密接した空間で過ごさなくてはなりません。いま、「夜と霧」を読んでいるのですが、わたし自身の人生そのものが強制収容所の内部経験に近いし、部活動はまさに強制収容所なんですね。

つまり、べたべたした空間に閉じ込められることが多いわけですが、そういう空間で何かを「教える・教わる」というのは、いま、「人生詰んだ状態」である地点からみて間違っていると思うし、それに対する制度上の解決は内藤氏が段階にわけで提案しています。(とくに学級制度の廃止などは重要です。)

上のことはエントリとは関係ないように思われるでしょうけれど、「どうやって教えるか」の部分がわたしにとって重要なわけです。というのは空気なんて観測できないんだから、観測できないものについて考えるのは苦痛なんです。

yamasushi (2014/07/05 09:54:42):

演技のクラスとかおもしろいとは思いますが、わたしの知っている学校の欠点が改善されてないなら(どうやら、最近のニュースとか見るとそのような感じですが)、なにをカリキュラムにしても、「空気を読めないひと」には苦痛だし、空気の読み方とか教えるなら、さらに苦痛になることが予想されます。

エントリーそのもの趣旨は理解できますが、それをやるなら、まず学校を変えなければだめなんであって、学校の問題をそのままで、演技の授業を設けるのには反対です。

まず、学校(特に学級、部活動)という密接な空間をどうにかしないといけないわけです。

この前提があるので、夢物語のような演技のクラスの話は頭に入らないのです。

yamasushi (2014/07/05 10:18:23):

「コミュニケーションを相対化して考える機会」を作ろうという流れを言っているのは理解できるのですが、実際の空間は、既存の密着した空間に慣れさせることを最大の価値としており、この点について何も触れていないことに違和感を覚えている、ということなのかと。(どうもよく言語化できませんが。

shiro (2014/07/05 11:41:07):

その論点はわかります。絡めてしまうと話がややこしくなるので敢えて外していますが、「システムを根本的に変えなければコミュニケーション教育なんて話をしても意味はない」という議論はアリだと思います。(私自身、「現状、教えられる人がいるのか」という点については疑問を持っていますが、現在の状況を知らないので何とも。)

日本の公教育の良し悪しは、特にUSと比較して色々思うところもありますが、まとめて議論するには大きすぎるトピックなので、何かネタを見つける都度書いてゆくつもりです。論点の提起は歓迎します。

yamasushi (2014/07/06 07:17:18):

正直な印象を打ち明けますと、コミュニケーションという行為は幻想ではないかと。何かが小包に入って伝達していくというイメージは社会学者がシャノンの理論を社会学に応用してかのものと聞きます。(西垣通「木曽情報学」) shiroさんの技術一般について考え方はきわめて工学的ですが、社会についてそれを適用するときには注意がいるのではないかなあと。シャノン的なイメージでコミュニケーションを捉えていないのでしたらすみません。

で、西垣氏が言うように「情報は伝わらない」というのが私の実感です。つまり文脈の共有というのは幻想ではないかと思います。「火星の人類学者」(オリヴァー・サックス)を自分のこととして読んだひとと、世の中には大変なひとがいるんだなと読んだひとでは、文脈が共有できないのではないかと。誰もがグランディンにはなれんのです・・・・・(たいていの場合は沈黙して空気を謳歌しているひとを眺めている。)

ですから、伝わらないということを前提で、それでも最低限の市民となるための教育をすることが重要だよなーというのが、内藤氏の説を読んでから得たわたしの意見です。

(「現状、教えられる人がいるのか」という点ですが、例えば「ストリートダンス」を教えるために資格ができています。それがストリートダンスかどうかは知らないですが。すなわち、shiroさんの意見に賛同するひとが増えて、学校で教えることが決まれば、「日本演技教育協会」みたいな団体が認可されて「演技」が学校教育になるでしょう。社会が学校化しているので、教えることが決まれば教えることはできるでしょう。日本の公教育の問題なのかなんなのかはわからんですが、内藤氏の問題提起は日本だけではないようです。)

shiro (2014/07/06 07:52:38):

コミュニケーションとか空気に対しては、yamasushiさんの考えと私の理解はよく似ているように私には思えるので、どこを論点にしたらよいのかよくわからないんです。私も、原則、他人は理解できない、伝わらない、ってとこが出発点ですよ。

yamasushi (2014/07/06 10:12:25):

わたしの「会話」とはまさにゲーム理論の世界で、相手の表情やしぐさは全てシグナル(もしくはスクリーニング)となるので、短時間の会話でも恐ろしいほどの負荷がかかります。ですから、役割が固定された「受付」や「診察室」でしかうまく会話はできません。わたしの観察ではshiroさんは普通に会話して、人当たりも良く(これはハワイで会食された某プログラマー氏のblogからの印象)、伴侶を見つけることもでき、お子さんもいる。不器用な私から見れば、非常に器用に人生を過ごしているように思うので、「よく似ている」という意味が図りかねています。

shiro (2014/07/06 10:38:33):

似ているというのは議論の前提の話です。yamasushiさんはコミュニケーション面で大きな負担を抱えていらっしゃるようなので、自分と周囲の断絶に敏感にならざるを得ないと思うのですが、よろしくやっているように見える周囲の人々それぞれも実はそれぞれ孤島にいるという可能性は考えられませんか? たまたまコミュニケーションできているような錯覚が成立しているだけで。

日本の公教育についてざくっと私の問題意識を書いときますと、「学校で教えることが決まれば~団体が認可されて」って発想が出てくるのが象徴的だなあと思います。誰か上の人が一律のメニューを決めて仕組みを作る、という。私はそれをとても息苦しく感じるのですが、一方で「自分の子供の教育は自分達(親、地域、コミュニティ等)で決める」という仕組みから生じる問題点も見ているので、一律の仕組みが悪いとも言いきれない、ってとこです。

shiro (2014/07/06 21:57:43):

「教えられる人」についてもイメージがずれてる感じがしたので補足。

USの主要な州立大学には演劇学科があって、プロへのキャリアであると同時に、演劇専攻で学士や修士を取ってから高校等で演劇を教える人もそこそこいます。そういう土壌があると、より規模を大きくしようとした場合に、(1)一般教師に教えられる人材の層がある(2)教員を目指す学生が大学で演劇のクラスを取ってみることが可能、という動きが出来るわけです。国の肝いりで団体を作って講師を呼んできて促成、っていう話じゃなくて、「数学や理科にあるような『教え方』の体系が、対人関係や個人表現にもあるんだよ」ってことが常識として普通に了承されている文化が欲しいってことです。

yamasushi (2014/07/06 22:06:19):

よく言われる「みんな孤独なんだ」というのは詩的表現として使っているのではないのですか? 私の場合は詩的どころが具体的に孤独ですが。

shiro (2014/07/06 23:13:40):

詩的な話というよりもうちょい具体性のある話のつもりなんですが、そこに踏み込む前に論点を確認しておきたいです。

yamasushiさん自身の個人的な体験と、そこから導かれる「全体としてのポリシーをどういうふうにもってゆくか」っていう議論があると思うんですが、ここでの関心は後者の議論であって、yamasushiさんの個人的体験は「こういう人もいる」というデータポイントとして議論に供されている、ってことで良いですね? yamasushiさんの苦しみを私が心情的に完全に理解することなど不可能ですし(また、yamasushiさんが私がコミュニケーションで感じていることを理解することも不可能だと思います)、yamasushiさんはそういう理解を求めているわけではない、これはよろしいですか?

yamasushiさんはそのデータポイントから、いわば最大公約数としての文脈に頼らないコミュニケーション技術こそ学校で教えるべきであると主張している、と私は読みました。

それについてはもっともだと思います。ただ、大多数の人にとっては自分の文化圏(それはみんなが「普通」と思っている範囲よりも案外小さいと思うのですが)での「空気読み」は多かれ少なかれ教わらなくても身についちゃってることで、文脈に頼らないコミュニケーションを学ぶにはまずその特定の文化圏に依拠した空気読みの習慣を"unlearn"しないとならないんじゃないか、というのがこのエントリで言いたかったことです。

yamasushiさんが、もしこの論点の上にさらに「いやそれは違う」とか「今の学校ではその機能は果たせない」とか積み上げているのなら、ここから先の論点が私はまだよく理解できてないので、もう少し説明していただけると助かります。

yamasushi (2014/07/07 02:24:23):

「文脈に頼らないコミュニケーション技術」というよりは「義務教育で教わるもの」のみを純粋に小学校・中学校で教えるべきで、いわゆる知識偏向の詰め込みでいいと思います。コミュニケーションを教えることに反対しているというと極端ですが、それに近いです。(ですから運動会とか文化祭とか生徒会とかいらないです。) となると、学校でなくてもいいじゃん、となり、それが内藤氏のいう「教育バウチャー制」と理解しています。

近代的学校教育の「目的」の一つに近代的軍隊の整備があったのは明らか(「身体の零度」(三浦雅士)など)であり、それについては否定も肯定もしませんし、それは必要だったことだと考えてますが、システムそのものが軍隊を指向している状態で、「市民社会のための技術」を教えるのは無理な相談ではないかと思います。

議論の前提となるかどうかはわかりませんが、コミュニケーションを純粋に(無機的に)表現してみるといいのかもしれません。つまり「自由意思を持った人間」としてでなく、何かの群れとして俯瞰するようなことです。(わたしは自由意志をあまり信じていません。)

郡司ペギオ-幸男氏の「群れは意識をもつ」に、それを期待したのですが、おもしろい視点はあるものの、いまひとつわからなかったです。ペギオさんの文章に癖があるのと、議論の進め方についていけなかったです。(ペギオさんはカニで計算した男として有名なのかもしれませんね。)

shiro (2014/07/07 04:13:32):

「義務教育で教わるもの」としてしまうと「何を義務教育で教えるべきか」で話が発散するんですが、具体的には読み書き算盤とか歴史や科学の基礎知識、あたりでしょうか。

実際、USでは義務教育で教えるべき範囲というのは決まってないし、地域によってばらばらで、選択肢としてもホームスクーリングに至るまで色々あります。今の政権は公教育側でもうちょい範囲と教え方のを揃えようとしてるみたいですが、なんかあまりうまくいってない印象。

私個人としても、例えばコミュニケーションを教えるとして、それを全国一律にカリキュラムを決めてやるってのは違うだろうなと思います。きちんとした体系は作れるし、それを選択肢として用意しておくってあたりで良いんじゃないかと。生徒の1~2割でも、「空気というのは『アプリオリに存在して誰もが自動的に読めるもの』ではない」とか「コミュニケーションは言葉だけではない」みたいなことを教わる機会がある、とかそういうことだけで、社会的な常識というのは変わってくるんじゃないかとは思います。そういう意味では演劇の選択授業だって良いんですけどね。yamasushiさんは音楽・美術・演劇とかは「義務教育の範囲」には入れない派?

yamasushi (2014/07/07 07:20:32):

「義務教育で教わるもの」は読み書き、算盤(算数、プログラミング)、歴史や科学でいいかと思います。「日本国民」になるための最低限の物です。(国民や民族は作られたものというのは大前提ですよね>)

いまは英語とか教えるそうですが、それは世界の中での日本という位置づけを知るという意味において日本国民となるためには必要になるのでしょう。(いわゆる「グローバル人材」育成ではない。)

世間で言われる「社会で役に立つものを子供の頃から」という発想は間違っていると思います。よくある間違いは「社会にでると某巨大メーカーのPCつかうんだから、そこのPC使うべき」っていうやつですね。この手の話はBTRON関係で坂村健氏が各所で書いていたので割愛しますが。

上でプログラミングを入れたのは「役に立つから」ではなく、計算の概念が変化したからです。いまは機械が主に計算するわけですから。

この延長で考えると、演劇を覚えるとコミュニケーションに役に立つから演劇を教えるという論理には賛同できないことになるわけです。うまく表現できないですが「役に立つから教えるべき」という論法にアレルギーがあるのです。

わたしにとって学校での音楽・美術・演劇というと「発表会」でして、あまりいい印象は持たないです。(30すぎたころピアノを習いに行きましたが発表会が苦痛でやめました。)

役に立つかどうかはおいておいて、音楽・美術・演劇そのものは習得しておいていいのかもしれません。人間が昔からやっていたことにはなにかしらの意義があるのでしょう。(教養がないので良く知らないです。

USでは地方と中央の関係は特異であることは伝聞で知っています。日本では地方では東京が神です。 「さすがは東大出てるだけある〜〜〜」「〜〜〜は〜〜〜だが、それでも、東大出てる」が普通なんです。

例えば、USでは「さすがはMIT出てる」「〜〜〜は〜〜だが、それでも、MIT出てる」言うのでしょうか? うまく言語化できないですが、日本とUSでは教育についての前提というか、環境というか、なにか根本的に違うような。

(とはいえ、狭い空間に強制的に詰め込んで「空気」を強制するといじめが起きるということは全世界に共通すると思いますが。)

yamasushi (2014/07/07 07:38:52):

読み返して、どうもうまくコメントできた気がしないですが、「コミュニケーションについての社会的な常識」を変えるために何をするといいか? となると、あまりにも大掛かりな気がします。「社会的な常識」を人為的に変えることができるものでしょうか? (わたしの考えでは「常識」とは群知能の枠組みで捉えるべきではないかと思っています。つまりプレイヤーがそれを制御することは困難ではないかと。

shiro (2014/07/07 10:02:29):

なるほど、yamasushiさんの論点がわかってきたような気がします。いくつか大きな枝があるように思うので個別に。

  • 日本のように「中央官庁が各分野の代表を集めて一律のカリキュラムを作る」方式だと、皆自分の分野を最大限に入れようとしますから(結局、その分野をやってきた人にとってそれは重要なことなので)、そこに新たにコミュニケーション教育だの何だのを入れても限られた時間数の奪い合いにしかなりませんし、そうせよと主張するつもりはありません。もうちょい先の、教育制度の大幅な変更も含めて「こうなったらいいな」レベルの話です。
  • 「役に立つから教えるべき」は良くない、というのは同意です。これまでの私の主張がそう聞こえてしまったらごめんなさい。内田樹氏も言っているように、「将来の見返りを約束して教育すること」は学ぶ側のインセンティブを歪めます。ただ、私の論の背景には、「表現することと、他者の表現を受け取ることは、基本的なリテラシーであるべきじゃないか」という考えがあります(このへんと関連します)。現在、国語の一部に文章表現が入っているのでしょうが、様々な手段で表現すること、伝えることの基礎技術、というのを体系立てて教えることはなされていないと思います。演劇を持ち出したのは、対人の直接コミュニケーションという点において技術的、理論的な基礎を共有しているので持ってこれるんじゃないか、って発想です。実際に科目として欲しいのは様々な手法(文章、バーバル、ノンバーバル、等々)により表現すること、他人の表現を読み解こうとすること、あたりを扱うものです。
  • でもいきなりそういうのを入れても何やっていいか教える方も受ける方もわからんでしょうから、手始めに演劇科目が選択で入って、なんかそういうのを経験した人が増えて行くっていうルートはありかなあと。
  • 演劇教育と言うと現状「公演を体験する」というものが主体でしょうし、そっちを連想してしまう人が多いと思うのですが、私が頭に置いているのは表現の基礎訓練の部分です。で、そういうのを教えられる人がそこそこいる状況にするには、って考えると、国立大には大抵演劇科があって専門訓練を受けた人がぼちぼち輩出されるような土壌が無いと大変かなあと。そういう人が直接教師になる、というのではなく、そういう人が教師を教える役割になる、ということですが。現役の役者さんは個人個人でテクニックを持っていますが、体系的に教えられるかどうかは別の話なので。で、そういう表現技法を教えられる人の層を増やして行くって意味でも、選択科目で音楽・美術・演劇がどこかに存在するのは、種まきや畑の耕しになるんじゃないかなと。全員がやる必要はありませんが。

後は余談的に

  • USでは日本の東大ブランドみたいなものはあまり感じないです。「さすがMIT」とか、エンジニアの内輪でなら通じるかもしれないけれど一般には通じないでしょう。Ivy leagueなら普通に名前が通りますが、あれはそこに通える資力もあるっていう一種の階層のシグナルって感じがあります。
  • 常識をプレーヤーが変えられるかってのはわからんです。事実として(a)常識は変わる (b)後から振り返れば、人々の常識が変わるのを後押しするような行動を取った人を見つけることができる、ってのはあると思います。しかし(b)のような人が出てくること自体が、大きな潜在的な流れの結果であって、その流れを無視して頑張っても影響は与えられない、という考え方もできると思います。まあでも、自分の望む方向に動くように何となく押してみるってのは好きでやるぶんにはいいんじゃないでしょうか。

yamasushi (2014/07/07 12:51:13):

整理をありがとうございます。系統だって語ることができないので表現についての、根源的な経験を紹介します。わたしは子供の頃、笑い顔だったらしく(家族環境が影響したのかもしれませんが記憶が曖昧です。)、まじめな状況でも笑い顔になるようでした。部活動で練習中、その顔を不愉快に感じた同級生はわたしを攻撃しました。かなり執拗な人格攻撃を長期間にわたって受けました。それ以来、表情をうまく制御できない、というか、顔について考えることが多くなったかなと思います。その後、高校に上がって同級生を見たとき、その人は「こわい」といいました。どこか不自然な眼差しだったのでしょう。 いまでも顔という奇妙な存在については考えます。なぜなら顔は自分で見ることができないからです。(これについては「ちぐはぐな身体」(鷲田清一)を読んで考え込みました。) 演劇とかノンバーバルとか言葉を読んでもあまり実感がわかないです。つまり、身体の制御プロトコルの確立であって、問題はそのフィードバックが他者に依存するということですよね? その最たるものが顔です。いまの表情が笑っているのかどうかは私には決定できないのです。

おそらく、表現についての前提がshiroさんとは異なっていると思います。この前提は身体をどう捉えているかという地点まで遡ると思います。わたしは手先が不器用で頭で考えてしまいますが、shiroさんは手先が器用そうです(パソコンを自作するくらいですから)。

おそらく、演劇という言葉で語るよりは身体をいかに自分自身が見ているかを語るほうがいいのかと思います。といいますと、演劇と言われると他人ごとのように感じるし、shiroさんの言うような基礎訓練を受ける場とか知らないです。たいていは公演が前提ですから。そういう演技の基礎訓練が受けられる環境が整っているところでは良いコミュニケーションができて、良い社会ができるのかもしれませんが、たぶん、それは東京近郊になると思います。

shiro (2014/07/07 14:35:46):

表情が自分の内心と乖離している人は非常に多いです。大抵の人は所属文化圏のプロトコルを機械的反射として身につけることで「浮かず」に済んでいますが、反射でやってるということは自分の意志で制御出来てないってことです。それは一概に悪いことではなく、自分を守る盾だったりもするのですが、やりたいことの邪魔になる場合もあります。

yamasushiさんご自身のケースはわかりませんが、自分の内心に誠実なあまり、それを表情として表現できないことを負担に感じて却って表現が出来なくなってしまう、という場合もあります。

思うようにならないからだ、それをいかにして越えて自分のこころを届けるか、といったあたりについては、『ことばが劈(ひら)かれるとき』(竹内敏晴)が良かったです。

演劇の基礎訓練については、実際にやったことのある人でないとわからないと思うので、仕方ないです。体験できる機会も日本だと大都市に限られてると思います。

yamasushi (2014/07/07 22:02:24):

本のご紹介をありがとうございます。演劇の方のようですね。コミュニケーションについて語られるときに、暗黙の前提になっていることを思い出したので付け加えます。常識的な図式では人間は頂点で人間関係は辺となるグラフですが、わたしの経験から考えた図式では、人間は頂点となると同時に辺になるようです。目の前の人間に対して、その背後の人間を見る。逆に自分の背後にいる人間を意識し、透明になろうとする。そういう人間のコミュニケーションの導線としての機能があるかと思います。自由意志を前提として個人が確立していることが自明とする世界観では、人間は頂点であって、そこから辺(導線)が伸びるのですが、実際の局面では、自分は良い導線であろうとしていることが比較的多いような感じです。gauche/chatonで書いた根基をつかったグラフの表現はそういう人間の有様を記述しようとしてきた試行の産物です。(自然言語では人間について明晰に語れないと考えています。「ハチのダンス」についてハチがダンスで表現できないようにです。メタレベルというかなんというか)

この自然言語へのあきらめはわたしの無能力から起きていることではありますが、コミュニケーションについての諸問題を自然言語で明晰に記述するのは困難な気がします。とはいえ高度な数学を使えばいいというわけでなく(わたしも知らないし)、義務教育で習う程度の数学を組み合わせて表現できればいいかと思っています。

人間が扱う知識や経験の大部分は機械で扱えるようになります。最近、機械の顔認識アルゴリズムの精度が人間を上回ったとかいうタイトルを見ました。コミュニケーションの問題を考えるときに、人間を特別な存在と考えるのではなく、自己プログラムができる知識機械として捉え、機械のための表現をもってして、人間の問題を解決するというスタイルがあってもいいのかなと。(すでにありそうですけど。)

shiro (2014/07/08 01:23:53):

ああ、その人間関係の見方はおもしろいですね。私も、性格とか人格には個々の関係性の中で現れてくるものがある、という感覚があります (関係性のみが全てで人に固有のものが無い、とまでは言いきれませんが)。ペルソナ、ってことになるのかもしれませんが、相手との関係と独立して存在するわけでもないので違う気もします。

(話が逸れますが)そのへんで違和感を覚えるのは 最近のネットサービスでやたらと個人のアイデンティティの集約を求められることで、まあシステム的にとかビジネス的にそうしたいという動機はわかるんですが、それ以前に作る側に素朴な「個人をノードとして見る」感覚があるのかなあという気もします。

yamasushi (2014/07/08 04:02:11):

個人を頂点として捉える典型的なツールはフェイスブックですが、フェイスブックでさえ「友達の友達」という関係を重視しています。つまり「友達」というのは辺となるわけです。

逆に個人を辺として捉える典型的なツールはツイッターです。ツイッターの自己紹介欄は制約が大きすぎる。ツイッターで有効な情報は「自分がフォローしているひとが、対象者をフォローしているかどうか」です。この観点ではツイッターの参加者は超グラフの超辺となるように感じられます。ユーザーにつけるタグとしてユーザーがいる・・・・ような。当然、頂点と辺を区別している超グラフとは成り得ないので、「となるように」と書きました。

皮肉なことですが、コミュニケーションに大きな問題を抱えている立場にいると、ツールの特性を深く知ろうとするようです。

わたしの予測では、shiroさんのようにコミュニケーションにそれほど困難を感じていないような方はツールには割とドライな考え方を持っているのではないですか?

わたしはツールとは拡張された身体なので、ウェットな考え方、というか自分自身を表すもの、というか、拡張された皮膚というか、そういうものです。わたしが、それほど友好関係を持たないのにネットに書いているのも、肉体による表現がうまくできない以上、言語による皮膚を作ろうとしているのかなと思います。

わたしの感覚では空気というよりも、相手の背後に誰がいるかとか、私の背後に誰がいるか、そういうことが強迫的なものとしてあります。(おそらく陰謀論が好きなタイプならそうなのかもしれません。わたしも陰謀論にハマるときがあります。) 世界の複雑性を複雑なまま受け止めるということが重要であることは、理屈(理性)でわかっていますが、身体(陰謀論も能の機能が原因しているとか)はそれをうまく処理できない、ということでしょうか。それを補正するのが演技の基礎訓練だろうと理解していますが、それはネット越しの情報としての理解にすぎないのが残念なことです。都会人のほうが身体を通じたコミュニケーションに長けているような印象を持ちます(パフォーマンス、ライブ、デモ、演説など)。地方ではそういうコミュニケーションはあまりみかけません。もっぱらテレビが流す身体をつかったメッセージ(ドラマ、AKBなどなど)を消費するだけだと思います。

shiro (2014/07/09 06:43:28):

当初の話からだいぶ逸れてしまいましたが、面白いのでok。

ネット上に現れてる"shiro"は私の1側面にすぎないし、それ以外の部分が落ちてしまうのは仕方ないと割りきってる、って点ではドライですかね。別にキャラを作ってるわけじゃないですが、身体を欠いた、頭で考えた言葉を使ってる以上、大きな偏りはあります。

ただ、私はほっとくと何日も誰とも話さずにPCに向かってても平気な質でもあるんですよ。それだと上で言った「落ちてる部分」が萎縮してっちゃうので、演劇とかやってパランス取ってる感じです。

演劇では、通常の社会的な関係性など全部剥ぎ取って再構築しますが、その過程で関係の多層性が見えてくるのが面白いのです。理性の層では言葉を使ってあるやりとりをしつつ、でも本能的な層では身体を使って違うやりとりをしているとか。身体だって、パブリックに見せる身体とプライベートな関係で見せる身体とは(単に露出面積ではなく、仕草の点で)全然違う層ですし。個人の行動というのはいろんな層でのアクションが畳み込まれたもので、一つの層だけを見て理解しようとしても落ちるものがあると思います。

yamasushi (2014/07/12 07:33:30):

私がコメントをするきっかけを再確認しますと,空気について熱く語っているのが,正直に言えば,不愉快だったわけです.(自分が自由に動かせない身体の部分について,熱く語られているような,という感じです.一言で言えば嫉妬になるのかも.)

わたしは空気という不可解なものよりも他者の背後にいる他者,自分の背後にいる他者,という具体的な影が大きくて,眼の前の他者のシグナルはその影からのメッセージと捉えようとしていると思います.

「ほっとくと何日も誰とも話さずにPCに向かってても平気な質」とすっと書けるのは,他者との交流について問題を抱えていないことに起因しているように見えます.わたし自身「社会との関係性」が理解できないわけでなく,理解できてもうまく調整できないという人生なわけです.つねにオーバーアクションか無反応になるようです.

わたしは「落ちるもの」を極度に恐れていることはあります.ですから無駄に見える投稿を繰り返す傾向はあると思います.また,推論が飛躍していても,その飛躍そのものを伝えようとしているという事はあります.(どうもうまく伝わらない感はしますが,禅の考案のような感じかしら)

おそらく,わたしはshoroさんが演劇でやっている「再構築」をネットでやろうとしているのだろうと思います.(というかそれしか場がない)ですので,わたしのネット上での人格は「書いてることが意味不明でよくわからない,なにかに怒っているようなコミュ障」みたいなものかも.

唯一,身体に関係することで実践しているのはプールでの水歩きなのですが,自分の身体のイメージの確認のようなものです.同時に周囲にいるひとびとは社会的な記号が剥奪された水着だけの身体であるので「再構築」の助けにはなっているかもしれません.(わたしがド近眼で,プールでは顔がまったく見えないこともあります.)

これは想像ですが,shiroさんが空気にこだわるのは,ハワイという土地の事情と関係があるのではないかと思っています.土地からすればド田舎ですが,重要な軍事拠点.真珠湾攻撃のときにハワイで起きたニイハウ島事件はコミュニケーションの複雑さを思わせます.まとまらないですが土地そのものが複雑な「コンテクスト」なるものを持っているように思われます.

米国本土で活動されているときに,同じ事を考えていたでしょうか?

yamasushi (2014/07/12 08:19:11):

大事な事を忘れていました.日本の学校では「仲良く」が重要なのですが,USでも「仲良く」が重要でしょうか? 日本では生活指導という形で「仲良く」しやすい環境を作っているように感じられます.わたしのshiroさんのエントリに感じている違和感はこの「仲良く」を連想してしまった点に有ります.USでの「仲良く」というのはお互いの「コンテキスト」の尊重という理解でいいでしょうか?

shiro (2014/07/16 07:03:45):

またいくつかトピックが混ざってる感じでまとまって答えるのが難しいので、箇条書きで思いつくままに。

  • 「USでも「仲良く」が重要でしょうか」- 「仲良く」が「当たり障りなく周囲とやってゆく」なら否です。お互いの尊重、というのはありますね。良く "agree to disagree" なんて言いますが、「おまえの意見にはどうしても承服できないが、おまえがそう考えているということは認める」ということです。そういう形での衝突の解決は、日本の学校内ではあまり無い、というか、明言されないことが多いように思います。 "being honest is opposite of being nice" なんて言うこともあります。
  • yamasushiさんが抱えているほど大きな問題を私は抱えていません。一連のエントリで扱っている話は、yamasushiさんから見れば瑣末な話かもしれません。それでも例えば、「話せば分かると思っていたのに、いくら話してもわからない状況に出会って混乱する」といったことは、多くの人が直面する、普遍性のある「コミュニケーションの問題」だと思います。それについてyamasushiさん独自の経験から議論に新たな視点を持ち込んで頂けるなら有難いですが、yamasushiさんの特殊性を強調されてもどう議論に組み込んだら良いのかよくわかりません。yamasushiさんご自身の話を続けるなら、それがどう議論に寄与するか整理して頂けたらと思います。
  • 私は今回の一連の対話の中で、yamasushiさんの言いたいことはなんだろう、こうかな、こっちかな、というようなことを推測しながらあれこれ書いています。yamasushiさんも、言いたいことを伝えるために色々な書き方を試したり、色々なエピソードを取り上げたりしているのじゃないですか? yamasushiさんは実際、私がなぜこだわるのかについて推測していますよね。私はそういうプロセスを含めて「空気を読む」と言っています。それをyamasushiさんは「背後にいる他者からのシグナル」と言っているんじゃないかなという気がするのですが、違うのでしたらどう違うのか教えてください。
  • ハワイという土地の歴史はそれはそれでとても興味深いのですが、コミュニケーションについてこだわっていたのは日本にいる時からです。影響としては、米国に移った経験自体がいろいろ目から鱗でして、LAからハワイというのはそうでもないような。

shiro (2014/07/16 08:12:49):

というかふと気になったんですが、「空気を読むこと」と「仲良くすること」って全然関係ない(か、少なくとも両者に相関はあるけど必要条件でも十分条件でもない)と思うんですが、なんで仲良くって話が出てきたんでしょ。

yamasushi (2014/12/03 10:59:42):

(ここに来るのは久しぶりですが,この話題にコメントするのは多少消耗しますので敬遠していました。なぜコメントしたかについては片言で書いた通りですが,いまの状況で,整理すると「人間が言葉を発明」のではなく「言葉が人間を獲得した」と確信しつつあるからというか,言葉に駆動されたというか。詩的表現でしか説明できないのですが。)えーと,「空気を読む」と「仲良くする」ですが,内藤氏の「いじめの構造」でも触れているように,「コミュニケーション操作」といういじめ攻撃があります。一言で言えばシカトです。「空気を読む」とはその「コミュニケーション操作」攻撃を感知する行動と捉えられます。「「あんなやつの相手をするな」的な空気」を読むことが「空気を読む」の実践的な意味です。これを言い換えれば「仲良く」するには「空気を読む」必要があるわけです。おそらく,shiroさんの環境とわたしの環境ではかなり違うようですので,いじめと空気の関連について理解していただけるとは思えないです。わたしにとっては空気とは「コミュニケーション操作攻撃」という行動として強く記憶されています。いま現在での理解では,「空気とは確約を伴わない行動群」です。(最近のエントリにコメントした通りです。) で,わたしだけの問題として言語そのものに苦痛を感じることが多いです。日本語音声に苦痛を感じることが多々あります。空気との関係はなさそうに思うでしょうけれど,わたしにとっては空気とは「他者そのもの」というか,世界には「わたし」以外にいないような。哲学的で恐縮ですが,そういう哲学的状況が数十年つづいているわけで,いまはそれらを言語化する過程であると理解していただければ・・・・・(つまり,言葉に駆動されている状況)

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