Island Life

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2008/11/07

Don't take it personally

真っ赤な論文原稿が指導教員から帰って来たら? - 発声練習

  • 指導教員の指導は論文の書き方、内容、表現に関するものであり、「あなた」に対するものではないので冷静に指摘を受け止めること。

これは論文を書いている学生だけでなく、表現する者すべてにとって切に必要なことだなあ。

去年とったUniv. of Hawaiiの"Acting for the Camera" のクラスを今年も取っている のだけれど、このクラスは厳しい。演技を実際に撮影してそれを見ながら 先生がツボをついた批評をしてくれる。映像が目の前にあるので 自分としても直面するしかない。毎回ぼこぼこにされる感じだ。 (ただ、今回2回目なんで少し余裕をもって参加できているんだけど、そうすると 先生は常に、それぞれの参加者の現在のレベルに対して1ステップ上を基準に した批評をしていることが見えてきたのだが。)

で、先生がしつこく念を押すのが、"Don't take it personally." ということ。 批評の対象となっているのはあくまでその場に出された「作品」であって つくった本人の人格に対するものではない。 「役者の場合はこの違いを認識することがとりわけ重要だ」と先生は言う。 批評の対象となっている映像には役者自身が映っているわけで。画面の 中の自分を指して「ここがまずい」と言われた時にそれをpersonallyに 取らないようにする、というのは確かに少々難しい。

私自身がどうやってるか内省するに、どうも自分は「表現した時点の自分」 と「現在それを批評している自分」とを切り離すことで対応しているような 感じがする。表現した時点で、「外に出された表現」も「その時の自分」も 固定される。一度出してしまったものは取り返しがつかないし、 それを出してしまった自分というものも「なかったこと」にはできない。 その時の自分はそういうものだったのだ、というふうに諦めるしかない。 その上で、「その時の自分」から何を変えたらより良い表現ができるのか、を考える。

以前、就職ネタに触れた時に、自己分析なんてやってる暇があったら 表現しろ、みたいなことを書いたことがあるけれど、そういうことだ。 自分ってどんな人間かを知るには、今の自分を固定して標本にして、 それを眺めてみる必要がある。ところが自分の中でぐるぐる考えている 限り、今の自分と次の瞬間の自分と…が連続的に溶け合って、なかなか 固定することができない。標本にするためには、今の自分と次の瞬間の 自分を断絶させる必要がある。それには、今の自分に出来て次の瞬間の 自分には出来ないことをすれば良い。 「表現し、それを他人に目撃してもらう」のはその手段だ。 他人に目撃されてしまったら、取り返しがつかない。 その取り返しのつかなさが鍵なのだ。

追記2008/11/07 18:46:11 PST:
作品と人格 - 黎明日記

カネもらってちょちょっとやった仕事なら、人格と創作物は切り離される。しかし、心血注いで作った物の場合、そうではない。 [...中略...] このような場合に「人格と創作物は切り離される」と冷徹に言い放つことは難しい。

心情的にはそうだし、たぶんどんなに切り離したつもりでもどうしても切れないつながりが 底にあるはずなんだけれども。

だからこそ、敢えて「切り離す」と自分から決めることが重要なのではないかと思うのだ。 そうでなければ、自分の作品に甘えてしまう危険がある。死ぬまでに一作だけ世に出す つもりならそれでも良いのだけれど、次の作品へと進むには前作で出来なかったことに 直面しないとならないわけで。

たぶん、手放すことが出来るのは、野に放っても根本的なつながりは切れないという ことを信じられるからだと思う。自分がつくったものには、不可避的に自分の痕跡が 刻まれているはずで、それは作品がどう利用されようとも、届く人には届くはずだと いう確信。これが持てない時に、作者は自分の作品をコントロールしたくなってしまうのでは なかろうか。

追記2008/11/08 12:42:03 PST
http://twitter.com/kinaba/status/996240551

自分でフルボッコにできない作品は表現として外には出さない、としてるなあ自分の場合。まあチキンです。長めのブログ記事を書くでも裏で5個は突っ込み記事草稿を書いてから出すとかしてた。

出す前に自分で鍛えとくのは前提としても、自分から見える部分というのは どうしても限られるので、出してみたら思わぬ反応を喰らうということはよくありますな。 (自分と違う見方をしてもらわなければ出す意味が無いとも言える)。 Paul Grahamはエッセイの下書きを必ず信頼できる友人数人に読んでもらって 手直ししてるけど、良い方法だと思う。

あと、ライブで出すものについては「完成形」を持って行くということができない んだよね。練習でいくら納得行くものが出来たとしても、本番で完全にそれを 再現できるとは限らないし、観客の反応まで考えるとむしろ本番では練習の時とは 変えていかないとならない場合もあるし。そこで問われるのは作品そのものだけでなく 作品を載せる土台としてのその時点での自分自身でもある (文章だってそうなんだけど、 ライブの場合の方が明確)。オーディションの後はいつもずしんとくる。 ここで「切り離し」が出来ないと精神的にきつい。

でも人生はライブな決断の連続だ。いつ試されても反応できるように準備しておくことしかできない。

Tag: 表現