Island Life

2017/06/14

なりあん

shiroはあたらしいことばをおぼえた! ともだちがつかってた!

denarian 10歳代(の人)
vicenarian 20歳代(の人)
tricenarian 30歳代(の人)
quadragenarian 40歳代(の人)
quinquagenarian 50歳代(の人)
sexagenarian 60歳代(の人)
septuagenarian 70歳代(の人)
octogenarian 80歳代(の人)
nonagenarian 90歳代(の人)
centenarian 100歳代(の人)、100歳超(の人)

ところでこれらの接頭辞はよくあるやつだけど、 40代から90代までに入ってるgeはどこから来たんだろう?

と思って調べると、元々語源となったラテン語の数詞には-gi-が入っているのだった。

decem 10
vīgintī 20
trīgintā 30
quadrāgintā 40
quīnquāgintā 50
sexāgintā 60
septuāgintā 70
octōgintā 80
nōnāgintā 90
centum 100

しかし、だとすると20と30がvigenarianとtrigenarianになってないのが微妙に気持ち悪い。 3までは良く使うので別扱いってやつかな。

Tag: 英語

2017/06/12

ニッチ

何となく昨日のエントリからの続きっぽい話。


仕事というのは、「金を払ってでもやって欲しい」という需要と、 「それなら自分ができるよ」という供給がマッチすれば発生する。 殊に役者のような、必要とされる需要の幅が極めて広い業種では、 ニッチな需要と供給が回ることがある。

先日、映画"Jo, The Medicine Runner"のADR (アフレコ)に行って来たんだけど、そこで監督に聞いた話が面白かった。

大勢がバックグラウンドで喋ってる、いわゆる「ガヤ」を"Walla"というのだけれど、 Walla専門の声優さんというのがいるのだという。 事前に要件を指定しておけば、その場面で飛び交うであろう専門用語や専門職の話し方、 訛り等を完全に準備してきて、監督の欲しいWallaを演じてくれるのだそうな。 例えば患者でごった返す緊迫したERの廊下、と指定すれば、 医療用語をずらりと覚えてきて医者や看護婦の口調を再現する。 ラストベルトの工場労働者でもニューヨークの上流階級のパーティでも何でもござれ、 となれば確かに有難がられるだろう。

さすがに毎日それだけしかやらないってことはないだろうから、 仕事として、あるいは仕事以外で、他の演技にも関わっているんだろうとは想像するけれど。 何かが必要とされている間隙を見つけて、そこにすぽっとはまれば、 作品づくりに欠かせぬ技能者として重宝されるようにもなる。

まあ、最初から狙ってそういうところを探すというより、 チャンスを活かしているうちにいつの間にか落ち着いてる、っていうようなものなんだろうけど。


演技の世界のようにやりたい人がたくさんいて頂点が華やかな業界は、 世間的には、めっちゃ才能あり努力しまくりの人々がバトルロワイヤルして勝ち抜いた一部が成功者となり、 そうならなかった人は不遇な下積み生活で辛酸を舐める殺伐とした世界、 なんてイメージを持たれてるかもしれない。

そりゃ厳しい競争もあるし、トップに行く人の才能や努力はすごいんだけれども、 そういうわかりやすい階梯の周辺には、それを支える広い裾野を持つ生態系が繁栄してるんだよね。 目立たなくても、「欠かせない役割」を果たせる人なら、居場所はあるし、酬われる。

そこらへんの原理は、どんな業界でもたいして変わらない。

Tag: 芝居

2017/06/11

夢と仕事

数日前に、ゲームのイベントでの特別公演として舞台にアンサンブルで出た役者さんが、 公演後に報酬額を知らされ、 稽古に1月かけたのにこれでは生活できない、と嘆く趣旨のtweetをして話題になった。 (その後、該当tweetは消されている。)

これに対して、 「役者が喰えないのはわかりきったこと」 「やりたくてやってるんだから無名時代に貧乏するのは当然」 「もともと採算取れる舞台なんてほとんどない」 といった反応が大量に寄せられた。

もちろん役者が喰えないというのは事実なんだけれど、 芝居では喰えないからといって、待遇の改善を求めてはいけないということにはならない。 このことが、業界の外の人のみならず、 芝居に関わっていると思しき人の一部にも理解されていないようなのが気になった。

その根本には、「芝居をすること」と「仕事として芝居をすること」との混同があるのではないか、 と感じた。

* * *

「役者として生きてゆく」(Living as an actor)というのは、職業ではなく、生き方の問題だ。 喰ってゆけるかどうかは関係ない。 喰えないと割り切り、本業を持って、余暇で表現活動をしても良い。 いつか喰えることを夢見て、バイトしながら頑張っても良い。 どういう手段を選ぶかに優劣はない。ものすごく上手くても、 自分のやりたい表現をやるために、敢えて仕事としての演技を選ばない人だっている。

「役者として稼いでゆく」(Making a living as an actor)というのは、 エンターテインメントビジネスとして動いている主体(興行主や製作元)から、 演技の専門家として依頼を承けてそれを届け、報酬をもらうということだ。

役者として稼いでる人はもちろん、役者として生きてゆくことを選んだ人だから、 自分のやりたい表現というのを持っているだろうし、 仕事を通じてそれを実現してゆこうとするだろう。 けれど、ビジネスとしての仕事の依頼主は、 役者がやりたい表現をするために金を払っているのではなく、 専門職として依頼した技能を提供してくれることに金を払っている。 たまたま、 役者に自由にやりたいことをやらせることが即ビジネスになるという幸運なケースも無くはないが、 原則として、依頼された仕事に自分の「やりたいこと」を擦り合わせるのも、 雇われた役者の技能の一部であり、稼ぐためのテクニックのひとつだ。

* * *

日本にある「劇団」の多くは、 主催者がビジネスをするために役者を雇うという形にはなっていないはずだ。 運良く観客が動員できて、喰えるくらいの報酬が分配できることもあるだろうけれど、 興業が赤字だから報酬が少なくてもしかたがない、と考えるなら、 それは純粋な「仕事としての演技」ではない。 やりたいことをやるために、それを実現する劇団という場に、 「仕事であったら貰えたであろう報酬との差額」を出資しているということだ。 最終的に劇団として喰えることを目指すとしても、まだ喰えてない現状ならば、 各劇団員は「劇団運営」というビジネスの出資者でもある。

出資者と考えれば、報酬が少ないとか待遇が悪いと文句を言うのがおかしいのは当然だろう。 待遇を問題にする時、 役者が出資者でもある劇団のようなケースは最初から対象外だ。

だからといって、劇団でやる芝居の価値が低くなるわけではないのは勿論だ。 ビジネスの構造が違うというだけである。

* * *

劇団ではないプロデュース公演で、興行主が営利目的ではなく別の何かを実現したくて、 「予算が無いから十分な報酬は出せないんだけれども、出演してくれないか」と 頼まれることはあるかもしれない。

その「実現したい何か」に賛同するなら、やっても構わない。 「仕事であったら貰えたであろう報酬との差額」は 「興行主が実現したい何か」に対する寄付と考えてもいいし、 それを通じて自分が経験を積める、勉強代と考えてもいい。

この場合も、待遇問題の対象外だ。

* * *

しかし、興行主が営利目的である場合(舞台自体がペイしなくても、 それが商品の広告として機能している場合を含む)に、 「あなたはまだ有名じゃないから」と極めて低い報酬しか提示されない、 というのはどういうことだろうか。 或いは「勉強になるから」「これで認められれば道が開ける」等と言われるかもしれない。

そこには欺瞞がある。

本当に、興行主が「専門家としての報酬を満額支払うに値しない」あるいは 「まだ一人前でない役者に勉強させる」と本気で考えているとしたら、 売り物を作るのに不完全なパーツをそうと知りつつ使っている、ということになる。

他の仕事でもOJTがあるじゃないか、と思うかもしれないが、 役者は舞台に上がってしまったら替えが効かない。 「ああ、やっぱりいまいちだから第2幕からベテランに交代だ」ってわけにはいかない。

演技はナマ物だから、思ったように力が発揮できず不本意な結果になることもあるだろうし、 一か八かこの役者が化けることに賭けてみる、というやり方もあっていいのだけれど、 それでも当初は商品を作るに足る技能を提供することは期待しているわけで、 専門職にふさわしい報酬を提供することは前提である。 それでダメなら次から使わなければいい。 ダメかもしれないから割り引いておく、というのは、 興行主が自分がかぶるべきリスクを被雇用者に負わせていることになる。

興行主が、いやそうではない、 商品として成立させられると考えたからオーディションでその役者を採用したのだ、 というなら、 「経験になるから」と報酬を値切るのは、騙しているだけである。

* * *

やりたい人の数に対して、演技の仕事は少ない。 大部分の役者が喰えないというのは必然的な帰結だ。

だからといって、興行主が仕事としての演技の報酬をきちんと払わないのは、 観客に対して不誠実であるか、役者に対して不誠実であるか、その両方か、のいずれかである。

営利ビジネスでない演技に関してはこの限りではない。 とにかく芝居をやりたいからと身銭を切ることには何の問題もない。 また、商業での成功を目指して自分が出資する側にも回ったっていい。

けれどそういったケースと、 商業作品に対して技能を提供し報酬をもらうことを、 誰よりも役者の側が混同してはいけない。 その場合の不当な待遇に対して「芝居なんて喰えないから仕方ない」というのは、 不誠実な興業主を許容し、やりがい搾取を許すことになる。

Tag: 芝居

2017/05/19

子供と読む児童文学 (小5編)

らむ太の学校で今年度に出た課題図書のうち、印象に残ったもの。 (小3〜小4のはこちら)


My Side of the Mountain (Jay Craighead George)

13歳のSamは9人兄弟の長子。ニューヨークの狭苦しいアパートでの暮らしにうんざりして、 本で自然の中で生きるための知識を蓄え、家出して先祖が住んでいたという山に向かう。 大木のうろを住処にし、一人で一年以上サバイバルする話。 食用の植物や実の採取に始まり、 罠を仕掛けて動物を狩りちゃんと捌いて皮や骨まで利用したりといった描写がかなり具体的。

こういう冒険物は自分も子供の頃大好きだった。 ただ、今読んでみると、まあ大きな病気や怪我をしなくてよかったね、 的なシニカルな見方もしてしまう。

らむ太的にも、同じサバイバルものとしては次のHatchetの方が響いた様子。


Hatchet (Gary Paulsen)

13歳のBrianは、両親が離婚して母親と暮らす。 しかし父親に合いに行くため載った軽飛行機がカナダの森の中の湖に墜落。 生き残ったBrianの手元に残されたのは手斧のみ。一人生き抜くための冒険が始まる。

朝晩の猛烈な蚊の襲来に悩まされたり、苦労して作ったシェルターが嵐でばらばらになったり、 くじけて一時は死を考えたり、 "My Side of the Mountain"に比べてこちらの方が状況的にはリアル。 困難を乗り越える度にBrianが精神的に成長してゆくのが描写からわかる。 自立することで、両親の選択を理解するようにもなる。

最も困難な挑戦を乗り越えた時に唐突に訪れるエンディングも、 時として皮肉な現実を映しているようで秀逸。


Stargirl (Jerry Spinelli)

16歳のLeoが通うアリゾナの高校に、「空気を読まない」女の子が転校してくる。 Leoは型にはまらない彼女にどうしようもなく惹かれるけれど、 学校の中で浮くことも恐れて、板ばさみになり、ほろ苦い結末を迎える。

小5男子にはちと早いんじゃ? と思わなくもなかったけどこういうのはわかっても 親にはその様子を見せないだろうかららむ太がどう感じていたかはよくわからない。

あとStargirlは街中の人の動向を新聞などで調べて、 こっそり誕生日のプレゼントやお見舞いを届けたりしてるんだが、 一歩間違うとストーカーだよなあ。と、そう思ってしまうこと自体が 「こちら側」の社会性にとらわれていることの証左なんだろうけど。


The Egypt Game (Zilpha Keatley Snyder)

カリフォルニアの小さな街、小学5年生のMelanieは、 ハリウッドから引っ越してきたというAprilと、 古道具屋の裏庭で「エジプトごっこ」を始める。 けれども遊びのはずの神託に実際にメッセージが届けられたり、 街で子供が殺される事件が起きたりと、 危険な影がしのび寄って来る。

女の子が主人公だとノリが悪いらむ太。 途中で男の子がグループに加わって多少興味を惹かれたようだ。

謎めいた出来事は、全部ちゃんと伏線が引かれていて綺麗に解決される。


Detectives in Togas (Henry Winterfeld)

古代ローマを舞台に、少年達が濡れ衣を着せられた友人の無実を証明するために奔走する。

当時の風俗の描写が面白い。人名は読みにくいけど。 歴史的に重要な史実との絡みはそれほどないが、 当時のローマ市民とギリシャ出身者の関係の描写も興味深かった。

らむ太的にはいろんな性格の男の子が集まったグループのドタバタがうけていた。 最初の方の描写が後で謎を解決する手がかりになったりするので注意深く読む必要がある。


Holes (Louis Sachar)

いじめられっ子のStanley、拾ったスニーカーに窃盗の疑いをかけられ、 矯正施設に送られてしまう。 そこでは少年達に、毎日干上がった湖の底に穴を掘る、という作業が課せられるのであった。 「人格矯正のため」と言われる作業だが、施設長は何かを探しているようでもある。

強制労働からの脱出とサバイバルといったアクションに、 湖をめぐる伝説、そして発端となった悲恋の物語も絡み、 様々な要素が結末に向かって一気に収斂する。 先が気になって止められない。

らむ太的には、物語の時系列が前後するところで混乱する様子だったので そこだけフォローしたら後は楽しんでいた。


The Mostly True Adventures Of Homer P. Figg (Rodman Philbrick)

アメリカ南北戦争の時代。親を亡くし非情な叔父の下でこき使われる兄弟だが、 叔父の謀略で兄が戦争に取られてしまう。 それを助けるため弟のHomerが波乱万丈の冒険に。

Homerは大ホラ吹きで話しているとどんどん尾鰭がついてゆく。 それは相手にもバレてるんだけど、 互いに信用できない世の中では口八丁で渡って行く技能も重要だよなと。 飄々としたHomerのキャラクタがおもしろい。

舞台はカナダ国境に近いメイン州の田舎に始まり、ポートランド、 ニューヨークを経てペンシルベニアへ。 らむ太と地図を見ながら読んだ。


追記(2017/05/29 12:32:23 UTC): 学校は来週で終わりでもういつものbook reportは無いんだけど、 らむ太が借りてきた本がえらく面白かったので追加でメモ。

The Ture Confessions of Charlotte Doyle

1832年、イギリスからアメリカまで貨物帆船の唯一の旅客として旅することになった13歳の少女が経験する冒険物語。船員の反乱、信頼と裏切り、嵐の夜の殺人事件、容疑をかけられた主人公の裁判、それに、階級社会の閉塞感とそこからの脱出という背景もあって、色々盛りだくさん。

子供の頃、帆船の旅の物語が大好きで、『ニワトリ号一番のり』とか繰り返し読んでた。この本はさらに殺人事件が絡んで、登場人物それぞれの表の顔と裏の顔、言っていることが真実か嘘か、それを互いが読み合って、というなかなかに凝ったストーリーが子供にもわかりやすく整理されて提示され、これ子供の時に読んでたら夢中になっただろうなあ。


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2017/04/05

「『日本人の英語』は難しすぎる」への反応

マーク・ピーターセンの『日本人の英語』についてこんなエントリを見た。

同書は大学生の時に読んで目から鱗体験をした。良い本だと思う。このエントリについては特に言うことはないんだけど、このエントリに対して次のような反応が結構あることが気になった。

冠詞の有無とか間違えたって文脈で通じるよ。こういう細かいこと気にしてるから日本人は英語苦手なんだよ。

これは全くその通りで、日常の生活や仕事上の会話程度ならこういうことを気にするより間違いを気にせずにどんどん喋る方がいい。目的が、生きてゆくことや仕事を終わらせることであれば、通じさえすれば何だって良いのだ。

ただ、同書が対象にしているのは、そこよりもっと先に行きたい人、映画を見たり小説を読んだ時にニュアンスを含めて深く理解したいとか、他人に読んでもらえる文章を書きたい(小説を書くとかだけでなく、たとえばプロポーザルの文章を書くとか)、といった人だと思う。

こういう、「日常会話では気にしなくても通じるような細かい文法の知識」が実際に意味の理解に影響を与えるという話は何度か書いた気がする。例えば:

  • 冠詞: 冠詞の有無で台詞に矛盾がでちゃう話
  • Google翻訳と下訳: 原文の単数形と複数形の使い分けのニュアンスを汲み取ることで理解しやすい訳文にするという話

あと、これは興味深かった。"the"を入れることが差別的な響きをもたらすという例:

Tag: 英語

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