Island Life

2016/09/21

ソヴィエト

先週マウイに行った折、金曜の午後のスケジュールが空いていたので マウイ在住のアマチュアピアニストの友人宅にお邪魔した。 ハレアカラの山腹、クラにえらく広い地所があって、山のロッジ風の広い家だった。 天井が高くてリビングに置いたピアノが良く響く。 途中から、ロシア出身のピアニストの知人も合流して代わりばんこにいろんな曲を弾いた。

自分は、ShostakovichのA majorのPrelude&Fugueを復習してるのでそれと、 Kapustin Op.40の6,7,8、あとこないだ弾いたBach。

ShostakovichのA major (Op.87-7) は自分は可愛い曲だと思うんだけど、 ロシアのその人は「ずいぶんリリカルに弾くのねえ」と。 「ソヴィエトだった頃は、こういう曲は勇ましく、マーチみたいに弾くように言われたものよ。 人民を鼓舞するようにって、そういうのじゃないと党にウケが悪いから。」

へぇ~。確かにそう言われてみればこのテーマはトランペットのように聴こえなくもない。 Shostakovich本人やNikolayevaの演奏だとむしろ鐘って感じかなあ。かなり速いから。 でもOp.87全体が、社会情勢とは離れたとても個人的、内面的な作品って感じがするんだよなあ。

Tag: Piano

2016/09/18

Mai Poina in Maui / 演出家の仕事

毎年9月にやって8年目になる "Mai Poina: The Overthrow" walking tour、 今年はマウイへの遠征公演もあって、昨日帰ってきた。

本公演はイオラニ宮殿の敷地にて、実際にその出来事が起きた場所を見ながら 当時の人物に扮した役者が出来事を語る。でもマウイ公演では劇場の舞台での パフォーマンスになるので、舞台向けにアレンジしなければならない。 どうやるのかな、と思ってたけど、元の演技はほぼ変えることなく、 公演全体をブレヒト的な枠に収めることであっさりと生まれ変わらせてしまった。 演出家のこういう手腕はほんとに見事だなと思う。

何度か演技のクラスで一緒になった俳優のDennis Chun氏は 役者の仕事は"how to make the scene work" を考えることだ、 と言っていた。とすれば演出は "how to make the play work" を担当するって ことかもしれない。

うまいなと思う演出家って、「こういう演技をしてくれ」とは決して言わない。 芝居全体に一貫性を持たせる枠を設定したり、キーポイントでの解釈を 決めたりする。それに沿って「シーンを成立させる」ように演技してれば自然に 芝居が形になる感じ。「役者をのせるのがうまい」ということなのかもしれないが。

役者の解釈が持ってきたい方向と違っていた場合、良くあるのは、演出家が 別の解釈を提案して"Does that make sense to you?"って聞いてくることだ。 解釈が腑に落ちれば、そこから出てくる表現は何であれ「正解」のはずである。 (もともとそうなるような役者をオーディションで選んでいるのだから。 正しい解釈をしているのに表現ができない、という役者は選ばれていないはずである。)

表面的な表現だけをいじること(「もっと怒りを出して」とか)はあまり 良いディレクションではないと感じる。もちろん、そう言われれば役者としては もっと怒りを出す必然性があるような解釈を新たに探すわけだけれど。 幸い、そういう演出や監督に当たったことはほとんどない。

演出や監督の、こういう面というのは、現場経験者以外には案外知られてない ことかもしれない。表現に対して注文をつける仕事だと思われてる節もある。 表現は役者の責任だ。芝居全体にハマるような表現が出てくるように誘導するのが、 演出の仕事、という感じがする。

Tag: 芝居

2016/09/04

Celebration of life

最近ちょっと続いたのでメモっとく。

誰かが亡くなった後にやる儀式、近年ではfuneralではなくcelebration of lifeとするようだ。根本にある意義としては同じだと思うが、celebrationの方は宗教色がほとんど無く、故人に関する思い出を皆で共有するという点に絞っている感じ。例えばスピーチやビデオ上映があって、後は飲み食いしながら歓談とか。故人の遺体との最後のお別れ、みたいな機会は別に設けられるので(そちらは親しい友人のみ等ひっそりやることが多い)、celebrationは没後数週間の期間を置いてから設定されることも多い。時間を置いた場合、色々凝った準備がされる場合もある。

今までで一番印象に残ったcelebrationは、演出家James Nakamoto氏のものだった。氏は長年McKinley High Schoolで演劇のクラスを教え、ハワイとLAで多くの舞台を演出した。私も一度、氏の演出する舞台に出演したことがある (Mainland Education, 2009 at Kumu Kahua Theatre)。教え子で役者やパフォーマーになった人も多い。氏は2013年に亡くなったが、McKinley卒の教え子が集結して2014年、氏に捧げる芝居を作って1日限りの公演を行った。演劇人を送るのに、これに勝る儀式は無いだろう。

どういう形を取るにせよ、定型の儀式のかわりに色々計画して準備するというのは、残された者にとっても良いセラピーになると思う。

Tag: 生活

2016/08/26

λの起源、2つの説

λ算法はなぜλなのかについては、次の説が有名である。

Alonzo Churchがλ算法を考えた時、RusselとWhiteheadが Principia Mathematicaで束縛変数を表すのにカレット^を 使っているのに倣ったが、1行でタイプする都合上カレットを前に出し ^x f(x) とし、それが λx f(x)となった。

『プログラミングGauche』でもこの話を紹介していて、そこでは出典を Peter NorvigのPAIPとしている。 この説はあちこちで見るので特に深追いしていなかった。

ところが、Churchの教え子であるProf. Dana Scottがそうではないと 語っているレクチャーがある。

http://researchblogs.cs.bham.ac.uk/thelablunch/2016/05/why-is-lambda-calculus-named-after-that-specific-greek-letter-do-not-believe-the-rumours/

He says that when Church was asked what the meaning of the λ was, he just replied "Eeny, meeny, miny, moe.", which can only mean one thing. It was a random, meaningless choice. Prof. Scott claimed that the typographical origin myth was mainly propagated by Henk Barendregt and is just pure whimsy. He asked us to stop perpetrating this silly story.

とすると^説はどこから? というわけで調べてみた。

Dov M. Gabbay, John Woods (ed.): "Logic from Russell to Church", Elsevier, 2009, p.731に次の下りがある。 (Google Books)

[image]

どうやら、Church自身が両方の説(^説と偶然説)を語っているようだ。

ここで引用されてる[Church, 1964]は "A. Church, 7 July 1964. Unpublished letter to Harald Dickson." だそうで現物を見ることは叶わず。 [Rosser 1984]の方はIEEEのDigital Libraryで読める。該当箇所:

[image]

RosserはChurch-RosserのRosserその人だから、信憑性に欠けるということはないだろうが、 Church本人から直接聞いた話なのか、上記Unpublished letterを通じて広まった話の方を 耳にしたのか、という点については明確ではない。

(あと、Rosserは^を前に出したこと自体はタイプの都合ではなく Russell&Whiteheadとは異なる用法だから、としている。 "Logic from Russell to Church"の説明もそれなので、その点は 1964年の手紙に記されていたのではないかと思われる。 「タイプの都合で前に出した」は尾鰭である可能性が高い。)

可能性としては、

  • λの選択は偶然だったが、Harald Dicksonへの手紙ではジョークのつもりで もっともらしい話をでっち上げたらそれが広まってしまった
  • Principia Mathematicaからインスピレーションを得たといえばそうなのだが、 記号の起源なんてどうでもいいと思っていたので後の方ではただ偶然ということにしておいた

あたりだろうか。 まあ、どちらにせよそんなにこだわるような話ではない、と少なくともChurch本人は思っていたような感じである。

Tag: Programming

2016/07/29

或るプログラマの遍歴、的な

芸術家や職人を志す人物を主人公に据えて、その「道」の探求の醍醐味を読者に 伝えるというジャンルがある。 予てよりプログラミングについてもそういった作品が出てこないものかと思っていた。 プログラマを主人公や主要人物に置く作品は決して少なくはないけれど、 人間関係のみに描写が割かれプログラミング自体は単なる頭脳労働か、 目的を達するための何やら不思議な技としてしか描かれないことがほとんどだ。 プログラマが感じている、プログラミング自体の醍醐味をうまく伝えられたら、 面白いものになるんじゃないか。

第六回立川文学賞入選作の斎藤準『√1』 (『立川文学VI』収録) は、 その点でかなりいい線を行ってると思った。

主人公はビデオゲーム、スポーツ、文学、音楽と次々にのめり込んだ後に、 とあるきっかけでソフトメーカーに就職し、プログラミングにも同型の魅力を見出す。 けれども現実の業務ではそれ以前の段階で足を取られて…

個人的な感想として、作者のプログラミングへの想い(あるべき理想形)がちょっと 全面に出すぎている気がしたが、 そのへんは読者のバックグラウンドによって感じ方が違うかもしれない。

実はストーリーとしてはこれからってとこで終わってて(物語論でいう3幕構成で言えば2幕前半まで)、 このあと主人公がどうなるかが知りたくなるんだけど、そう思うくらいに読ませるので 短篇としてはこういうのもありなのだろう。 3部作くらいで、この後の成長段階を読んでみたいと思う。

* * *

ところで、同じ書籍に収録されている大賞受賞作は演劇のオーディションを扱っているんだけど、 私の知る演劇の現場とはかけ離れていてちょっとびっくりした。 こちらの作者は劇作家だから、多少の誇張や単純化はあれ、描かれてるような現場も実際にあるのだろう。 演劇って世界でも場所によってそんだけ違うんだから、プログラミング業界だって 場所によってびっくりするくらいの違いがあってもおかしくはないね。

Tags: , Programming

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