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< らむ太語録 | コードと別にドキュメントを書く意味 >

2009/03/23

国語を「文系」に入れるのやめにしない?

国語力とプログラミング力の関係 解説編

「わたしの持論ですが、国語ができる(=日本語できちんとした文章が書ける)人じゃないとプログラムは書けない。これは非常に重要です」

基本的には同意、というより当然すぎて言うまでもないことじゃないかとさえ 思うのだけれど、これをわざわざ言わなくちゃならないのって、国語教育の問題 なんじゃないかという気がした。

「自然言語を使って、自分の言いたいことを一貫性を持って記述・発表できる、 またそうやって記述された文章や語られた言葉をきちんと理解できる」っていう能力は、 どの方面に進むにせよ、現代社会の中で生きてゆくには重要な能力だ。 それに対して、文学小説や古典の読解(より一般的には文脈を重視したテキスト解釈) というのはもっと特殊で、社会的な話(文学史、思想史、哲学史etc)との関わりが 深くなったり、情緒的な「読み」を要求されたりする。

今の国語はこの両方がいっしょくたにひとつの教科に放り込まれている。 これが不幸の元ではなかろうか。

文系理系という分類は嫌なのだが、性向として「人の営みにより興味を惹かれるタイプ」 と「自然の営みにより興味を惹かれるタイプ」というのはあると思う。私は高校くらいまで あまり人に興味が無くて、だから人の営みを主に扱う社会という教科はずっと苦手だった。

で、「人の営み」に興味を持てない学生からすると、上に挙げた国語の二つの要素のうち 後者の話は全然面白くないんだよね。でもそれが出来ないと国語という教科が苦手に なって、前者もやろうと思わなくなる。あるいは前者にも苦手意識を持ってしまう。 それは非常にまずいんじゃないか。

もし、前者の「自然言語による表現とその理解」が、「基礎語学」とか「語学表現」 みたいな教科で、後者のテキスト解釈その他が「文学」という別の教科になってたら、 学生の受け取り方はかなり違ってくるのではなかろうか。「国語」のサブカテゴリとして 分かれるのではなく、「社会」と「英語」が別教科であるのと同じレベルで別教科。 文系って言いたい人は「文学」の方をやればいい。 一方「語学表現」は全員必修で、論説文の読解や作文以外に、 口頭発表や議論のテクニックも含める。 というか極端な話、簡単な英語によるディスカッションという題材もこっちに 放り込んじゃったっていいくらい。 あるいは、「言葉の通じない環境に一人とり残された。あなたのミッションは○○である。 どうにかして周囲とコミュニケーションを取ってそのミッションを実行するには、 何を伝えることが必要か考えよ」みたいな課題を入れるとか。

教育現場のことを何も知らんので、実はこういう話は前からあるんだけど 実現できない理由があるのかもしれない。

だけれども。

学生の頃、バイトや研究で色々なソフトウェアを使いながら感じたのは、 英語と日本語の情報量の圧倒的な差だった。英語圏発のソフトウェアだから 英語の情報が多い、という話ではない。ソフトウェアと、それに関する良質なドキュメントの 量の比率である。とにかく英語圏のプログラマってのはドキュメントをもりもり書くんだなあ、 すげえなあ、という印象だった。しかもそれがテクニカルな意味でわかりやすい。 学生が実験的に作ったようなソフトであってもカッコいいマニュアルが揃っていたりする。 そして、ドキュメントがちゃんとしていないソフトウェアは広く使われるように なりにくいし、また忘れ去られるのも速いような印象がある。

語学表現に苦手意識を持ったままのプログラマは、プログラムという作品を産み出すに あたって大きなハンディキャップを背負ってしまっているようなものではないだろうか。

Tag: Career