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2010/09/23

制約

創作の目的に関連するような、しないような話。

うまく説明できないのだけれど、 「自由に作る」というのは、「作り手が好き勝手に作る」というのとは違うと思うんだよね。 重なる部分もあるけれど。

良いものが生まれる時って、 「そのものが本来あるべき姿に向けて成長していった結果としてそうなった」って感じがする。 もちろん、事後的に見てそう見える、っていうことで、 製作の渦中にいる時に何が本来あるべき姿か、なんてのは見えない。 作っている最中に言えることは、「作品が向かって行きたい先を邪魔しない」ってことだけじゃないかと。

この「邪魔」には、「作者のエゴ」ってのが含まれる。 最初から必要以上に「この作品はこうしてやろう」っていうのを考えすぎると、 作品が向かいたい先を示すサインを見落として、作品の可能性を刈り取っちゃうことになるんじゃないか。

舞台でもカメラでも、演技する時、相手に集中するっていうのは基本なんだけれど、 アクティングのクラスでこんなふうに教わった。 「相手に集中するというのは、もちろん相手の演技に的確に反応できるようにするためだが、 『自分から注意を逸らす』という効用もある。こう演技してやろうとか、 こんな感情を出してやろうとか、『自分』に意識が向いてしまうと、 どうしても力が入って自然な演技にならない。そういう『狙い』は、 舞台に上がる前/カメラが回る前に自分の背骨に染み込ませておくことだ。 舞台上では力を抜き、完全に自由であることで、的確なリアクションが取れるのだ。」

この「余分な力を入れない」っていうのは、演技とか演奏とか、あるいはスポーツとか、 ライブ性の強いものでは当然のことなんだけど、 時間をかけて作ってゆくものにもあてはまると思う。

現実のものつくりでは色々な外からの制約があって「思うように作れる」ことは 滅多に無いのだけれど、そういう制約って舞台上で2mジャンプできないとか 掘っている木の変なところに節があったとかそういうのと同じで、 むしろ出来るものに形を与えるガイドになっているんじゃなかろうか。 努力で乗り越えられる制約はあるけれど、全てを乗り越えられるわけじゃない。 どこで突っ張ってどこで流すか、っていう判断は、 作品がどうなりたいかという声に従うのが一番だという気がする。

Tags: ものつくり, 芝居

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