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2010/11/14

好きなことと職業

職業にして失うということ - 深町秋生のベテラン日記

小説をほとんど読まなくなって数年が経つ。海外小説はちょこちょこ読んではいるけれど、国内の小説に関してはほぼ全滅だ。仕事がらみでないかぎり、手に取ることはない。なぜならやはり純粋に楽しめないからである。批評したり、学んでしまったりと大変面倒くさい。イライラもひどければ、おもしろければおもしろかったで、ひどいジェラシーに襲われる。

しかし好きなものを職業にするというのは、「自分がもっとも好きなものを、もう純粋に楽しめなくなる」「自分がもっとも愛したものを、もっとも憎悪するようになる」という悲劇やリスクがつきまうことでもある。ピュアな心を失うというか。

こういう話は何度も聞いたことがあるし、 いかにもありそうなことだと思う。

けれども一方で、スティーヴン・キングは小説を読む楽しみについて 繰り返し屈託無く語ってるし、実際相当読んでるんだよね。

まあ、「キングは別格なのだ」という解釈もありえなくはないけれど、 職業を広げて考えると、例えばプログラマ業界だと、 仕事でもコード書いて趣味でもコード書く人というのは珍しくはない。 いや、「読む」と「書く」の違いが無いとだめか。 でもプログラミングを職業にしたから純粋に人のプログラムを 楽しんで読むことができなくなった、とか、楽しんで使うことができなくなった、 なんてことはあんまりなさそうだ。

プログラムは元々読んだり使ったりして楽しませるものじゃないから違うかな。 ならビデオゲームなんかどうだろう。ゲーム制作を仕事にしたら 純粋に楽しめなくなった、っていう人、いそうではあるけれど それが大多数であるという感じもしない。 仕事でやってるから普通の人とは違うところが気になるとか ついつい分析してしまうってのはあるけど、 何だかんだ言ってもそれなりに(時間が許すなら)みんな楽しんでやってる気がする。 (ゲームやってる時間が無くなるのでできない、というのは別の話だし)

好きなことを職業にしてしまうことで、純然たる受け手という立場を 取れなくなる、というのは多分真実だけれど、それで楽しめなくなるかどうかというと ケースバイケースかな。 「純然たる受け手としての楽しみ」というものに重きを置くかどうか、ってことなのかなあ。

もひとつ思うのは、ひとくちに小説なら小説を書くことを生業としてます、と言っても、 それが持つ意味っていうのは人それぞれなんじゃないかってこと。 例えば「もうやめる」と何度もいいつつやっぱり次の作品を作っちゃう人がいて、 きっとそういう人は一生やめられないんだろうなあと思うけれど、 一方では書きたいことを全部書いてしまったとばかり、一時期の作品の奔流が 嘘のように寡作になってしまったり他の分野に転身してしまう人もいる。 後者は「小説家」という枠で見れば「枯れちゃった」ってことになるんだろうけど、 その人の人生の道筋の上では小説家っていうのが単なる通過点に過ぎなかったのかも しれないし。

作品を出しつづけていても、作品そのものを出すことが究極の目的なのか、 実は何か他の目的をかなえるための手段になっているのか、ってあたりは 人それぞれ違ってくると思うし。

「職業にしてしまった好きなことを楽しみ続けられるか」っていうのも そのあたりのスタンスの違いに関連してくるようなしないような。

特に結論めいたことは無いんだけど。職業に関して「夢をかなえる」みたいな ことを聞く度に、職業を終着駅と考えるのは違うんじゃないかなあ、 むしろ一生「途中経過」と考える方がいいんじゃないかなあ、という気がしているのだ。

Tag: Career

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