2011/06/09
道具話
ちらっと見かけて気になった。
http://twitter.com/taroleo/status/79005916980199424
@taroleo: 一歩先を行くプログラマというのは、道具について多くを語らない人だと思っている。例えば調律に詳しいピアニスト、絵筆に詳しい画家、Wordの実装を知ってる小説家なんてつまらない。道具を使って生み出すものにこそより大きな価値がある
「道具を使って生み出すものにこそより大きな価値がある」のところは同意するけど、 前段から飛躍があるような。
楽器フェチで自分の楽器への愛について語り出すと止まらない演奏家とか、 絵の具フェチで微妙な油絵具の発色の差について延々と語れる画家とか、 タイプライターやワープロソフトについて強い意見を持っている小説家とか、 いてもおかしくないし、その事実を以って作品がつまらないと一概には言えないだろう。
もちろん、全然道具にこだわらずに手元にあるものを使ってどんどん作品を 産み出しちゃう人もいるだろう。道具を語ることと産み出す作品の質は それほど相関が無いんじゃないか。
大事なのは、誰に対して語るのかってところだと思う。
自分の作品の受け手に対して道具への薀蓄を語るのは、そりゃ間違ってる。 道具の選択によってこういう効果が出た、というような話は舞台裏の話であって、 観客に意味があるのはその効果そのものなんだから。 プログラマで言えば、ユーザはそのソフトがどの言語で書かれているかなんて 気にしないよな、という当然の話。
けれど、同業者の間でなら、道具について濃く語り合ってても不思議はないよね。 というより、少しでも良いものをつくろうと思ってたら道具にせよプロセスにせよ 常に工夫しつづけているわけだから、(こだわるこだわらないは別にして) 何かしら語れることはあるはずだ。ましてや「一歩先をゆく」ならなおさらのこと。 使える道具や、上手くゆくことがわかってるプロセスなんてまだ無い領域を 開拓してるんだから、道具についても毎日が工夫の連続、発見の連続であるはず。
ネットのおかげもあって、以前なら同業者間の閉じた世界だけで話されていた ことがそうでない受け手にも見えることが多くなってきたってのはあると思うけど。 自分の目に見えるものが、自分に向かって語られているとは限らないよなー。
というこの文章も、別に自分に向けられたわけではないつぶやきに 勝手に反応してるだけなんだけれども。
Tags: ものつくり, Programming
新井俊一 (2011/06/10 18:25:54):
shiro (2011/06/10 20:04:25):
Theoria (2011/06/12 01:30:03):