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2011/10/30

帰る場所

最近、あけっぴろげにツッコミを誘い、読者のスルー力に挑戦し続けているかのような内田樹さんのブログだが、このエントリには困惑を覚えた。

Harbor light について (内田樹の研究室)

大学と教師には、「卒後の自己教育」にとっての観測定点であり続けるという重要な任務がある。
卒業生たちは私を見ると「先生、少しも変りませんね」と言う。
それは客観的な記述をしているのではなく、むしろ彼女たちの主観的願望を語っているのではないか。
「先生は、少しも変わらないままでいてほしい。そうしてくれないと、自分がどれくらい成長したのか、どれくらい変わったのかが、わからない」そういうことではないかと思う。

この感覚が、全くわからない。

力を合わせて何かを作る時、その過程で参加者全員が変化する。何かを一緒に為したなら、 それを為す前の自分はもういないし、それを為す前の相手ももういない。 生徒と教師であってもそれは同じだ。無論、教師が遥かな高みにいるために、 その変化が生徒には見て取れないということはあり得るだろう (というか、生徒と同じように教師も変化してしまったら生徒は迷うばかりだから、 少なくともその時点において、教師が「変わらないふりをする」のは重要だ)。 でも卒業後何年も何十年も経ってから、当時の先生から「あの時、自分もこう変わったのだ」 という話を伺うことは大変面白いし、むしろその変化の原因の一旦を自分が担っていた、 ということこそが、その時その場所に自分がいたことの証ではないだろうか。

このことを、研究者であり武術もやっている内田氏が知らないはずはない。 だとすれば、このエントリで言っていることは、「自分は変わっているのだけれど、 教え子が『ウチダセンセは変わらない』ことを期待しているから、今でも変わってないふりをしておきましょう」 ってことじゃないか。

でもそれでいいんだろうか。あなたの知っている内田教官は、 もうあなたや私の想い出の中にしかいないんだよ、 懐かしのキャンパスを訪れてみたところで、得られるのは感傷だけだよ、 という現実を突きつけるのは酷だとでも言うのだろうか。

自分の成長を測る定点は、他人でも、大学といった場所でもない。 過去の自分が作り出した作品。それが、当時の自分を標本として固定する唯一の証拠である。

それとて、芝居みたいなephemeralなものを作っていたとしたら、想い出の中にしか残らない。 公演の度に仮設舞台を作ったあの高校の教室や、 汗の染み込んだデカ台のあったあの北ホール(駒場小劇場)さえも、もう物理的に存在しない。

自分の根というのは、外部に求めるものではないだろう。

自分の心の中のどこかに、あの時のあの空間は、まだ存在している。 そこを訪れようと思えばいつでも訪れることが出来る。

その帰る場所は自分の心の中だけにあるわけじゃない。 あの時のあの空間を共有した人となら、一緒にそこを訪れることもできる。

今、ここでこれを為すことで、全員が変化する、その覚悟を持ってことに当たれば、 皆の心の中に、その帰る場所が作られる。

大学を卒業したあとも、自己教育は続く。
そのとき自分がほんとうは何をしたかったのか、何になりたかったのか、どんな夢を思い描いていたのかが「そこにゆけば、ありありと思い出せる場所」は不可欠のものである。

そういう場所を、自分と仲間の心の中に作りなさい、 そのためには、誰かが変わらず見守ってくれるだろうなんてことはアテにせず、 今、ここに生きている証を刻み込むつもりでことに当たりなさい。 高校や大学で教えられるのは、そういうことなんじゃなかろうか。

★ ★ ★

もひとつ。

人に対して「変わりませんね」と言う時、それはその人がやっていることが 本当に変わってないのではなく、その人の変化する様が変わっていないということ なんじゃないかと思う。一次微分の部分に一貫性があるというか。

もし、学校時代の先生が、その後不意に大学の仕事を辞めて、ラッパーになったとか、デイトレーダーになったとか、蕎麦打ちになったとかいうことになると、「学校出てから・・・」という卒業生たち自身の「振り返り」はむずかしくなる。
想像してみても、「60歳過ぎてから突然『自称プロサーファー』になった恩師」とか「70歳過ぎてベガスのカジノで10億稼ぎ、今は若いモデルと六本木ヒルズで暮らしている恩師」とかを囲んでの同窓会はたぶんあまり楽しくないと思う。
変わってしまった先生にどう話しかけていいか、わからないからだ。

えー、変わってしまった先生、とっても面白そうじゃないか。

むしろ一切何も変わっていない方が、話すことが見つからないだろうと思う。 とはいえ、傍目には同じ事をやりつづけている人だって、その内面では変化があるはずで、 久々に会って話して楽しいのは、やっぱりその隠れた変化分を見ているのだと思う。

何か、変わらないものがあるという確認のために他人を定点観測に使うような態度そのものが 私は好きでないのかもしれない。 まあ、そういう需要はあるのかもしれないし、内田氏がそれに合わせようとするのは 個人の選択ではあるけれど、それはゴマカシだと思うし、それを「大学の役割」といった言葉で 正当化しようとするのは、あまり好きじゃないな。

ああ、結局スルーしきれずに内田さんに釣られちゃったってことなのかな。

Tag: Career

Past comment(s)

さとお (2011/10/31 16:02:37):

先日の同窓会で、変わった、というか、すっかり年老いた恩師を目の前にして、悲しさと同時に、先生もやっぱり人間なんだなぁ、という妙な親しみも感じました。 おおよそ変わっちゃったな、という印象の中で、それでもなお変わらないと感じるのは、内田先生のおっしゃる面があるのかもしれないけど、どちらかというと、自分の原点を求めるよりは、単に「あなたは確かにあの先生ですよね?」と確認したいだけなのかもしれません。

shiro (2011/10/31 19:49:08):

変わってしまうものの中に、連続性を探したくなる、っていうのはわかります。

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