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< ピアノレッスン23回目 | クラスアクション >

2011/11/17

それ英語じゃなくてコミュニケーションの問題

またtogetterからネタを拾ってしまった。ベンチマーク流してる間につい目に止まっちゃうんだよ(いいわけ)。

なぜ日本人は英語を話せないのか

私は初めての英語留学先のホストファミリーで、食事のとき「その塩を渡してください」をどう言うのか分からず苦悶した。私はずっと学校では英語の成績は優良だったのに。学校英語と実践英語では、使う脳の回路がぜんぜん違う。もちろん役に立つのは後者だ。

学校英語ってこき下ろされることが多いけれどそんなにひどいかなあ? 確かに会話の訓練は圧倒的に足りないけれど、学校の授業時間だけで 会話できるようにするのはもともと無理じゃないか。 極めて限られた時間で効率良く教えるという観点では、 少なくとも教える内容はそこまで悪くないと思うのだが… (教師の力量によって効果が違うってのはあるだろうけど。)

自分の英文理解も、未だに高校でやった文法解釈がおおいに役立ってる。 その意味では、実践英語と学校英語で使う回路は一緒だな、私は。 もちろん、速読とか反射的に出てくるフレーズなどは練習量がものを言うので 自力で補う必要はあるけれど、根本の英文理解は今でも高校で習ったとおりにやってるよ。

「塩を取ってくれ」が出ないとか、文法の間違いを気にしすぎるとか、 ブロークンでも身振り手振りでもいいってことを教えてくれないとか、 それは確かにそうなんだけれど、私はその原因を英語教育に求めるのは 違うんじゃないかと思う。 というのは、それ以前の「コミュニケートする」ということが教えられてないんじゃないか、 と思うからだ。 (いや、自分が教育受けたのはもう何十年も前だから、今は違ってるかもしれないけど)。

自分の持っている前提や常識とは違う前提や常識を持つ相手に対して、 自分の持てるあらゆる表現手段---言葉でも、身振り手振りでも、絵を書くでも---を 駆使して伝えたいことを伝え、また相手の伝えたいことをわかろうとする。 そういう訓練が初等教育でもっとあっても良いんじゃないだろうか。

実はそういう生のコミュニケーションへの足掻きって、 言葉が出始めた頃の子供は誰もがやっていると思うのだけれど、 次第に言葉に頼るようになって、非言語的コミュニケーションを忘れてしまうのだと思う。

これは前に書いたかな。USで演技のクラスを取り始めた頃、 先生に「君がいてくれて有難い」と言われたことがある。 「伝えるのに、言葉は問題ではないということが示せるからだ」だそうだ。 実際、演技のエクササイズには、この非言語的コミュニケーションを取り戻すための ものがたくさんある。そのうちいくつかでも、初等教育に取り入れられたら おもしろいんじゃないかなあ。

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言葉を尽くしても伝わらないことを嘆く人がいる。自分もそうだったんだけれど。 でも、言葉によるコミュニケーションって所詮「そういうもの」なんだな。 伝えたい側も、受け取る側も、言語で表現しきれる情報だけを扱いたいと思っている場合は 言語で良いんだけど、多くの場合、本当に伝えたいこと、本当に聞きたいことっていうのは、 もっと曖昧だけれど胸や腹の底にある、もやもやしたものでしょう。 それが普段言葉だけで伝わってると思ってるなら、それは錯覚だよ。

USに移って少しして帰省した時に日本の友人と飲んでて、 「英語だと言いたいことが言えずにフラストレーションたまらない?」と聞かれたことがあるんだけど、 日本語だって本当に言いたいことを言うのは難しいよ。 言ったら語弊があるから言えない、という意味じゃなくて、 スティーヴン・キングが "The Body" (『スタンド・バイ・ミー』)の冒頭で書いているように、 言葉にした途端に、肝心なことはこぼれ落ちてしまうから。

それでもどうしても表現したいことがあるから、使える言葉をかき集めて 不格好ながらなんとか似た形を積み上げようとするわけだ。 その積み木が英語か日本語かっていうのは、問題の一部にすぎない。 手持ちの積み木の種類が少なくたって、何か作ることはできる。

どうも英語でコミュニケートできるようにならない、という人はしばしば、 自分が日本語で組み立てているような形を英語でも組み立てようとして、 それができずに悩んでいるんじゃないか、という印象がある。 でも、その日本語の構造物は、伝えたいことのひとつの側面、投影にすぎなくて、 同じものを再現するのはもともと無理なんだな。 伝えたいことに戻って、それを手持ちの積み木で何とか作ろうと足掻いてみれば、 何かしら伝わることがあるだろう。

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言葉と切り離して、様々な手段で「伝えること」「受け取ること」を学んでおけば、 身振り手振りを駆使し知っている単語だけを使って伝えるという技術は、 出発点になる。英語教育で「ブロークンでもいいんだ、 カタコトでもいいんだ」なんてわざわざ教える必要はない。 ほっといてもみんなそこは勝手にやる状態なわけ。 英語の授業は「より効率の良い伝え方」を教わる場になる。 文法やるのも単語熟語やるのも、もともとはそういう目的なわけでしょう。

ではそういったコミュニケーションをどこで教えるのがいいかというと、 私は演劇というのを初等教育で教えたらいいんじゃないかと常々思っているのだけれど (生徒が劇を上演するというところはたくさんあるけれど、そうではなくて、 シアターゲームなどの演技の基礎エクササイズのところ)、 こっから先はまた別の機会に。

Tags: 英語, 教育, 芝居, 表現

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