2013/05/16
前後
学校帰りのらむ太の疑問。
「どうして時間の『まえ』は『うしろ』なの?」
詳しく聞いてみるとこういうことだ。空間的に進む時、「前」とはこれから到達する地点であり、「後」とは既に過ぎた地点である。しかし時間的な話をする時、「前」とは基準時から見て 既に過ぎた時点を指し、「後」とはこれからやってくる時点を指す。 英語も同様だ。それはなぜか、という。
ふーむ。これはわからん。
子供の頃は時間軸で常に未来に向かって進んでるイメージを強く持ってるせいかな? 過ぎてしまった時間の方が多分大きくなった身としては、時間軸は「その中を進んでいる」 というよりも俯瞰するようなイメージの方が強くなってる気がする。
(追記2013/05/17 23:49:42 UTC): コメント欄で指摘のあるように、自分が静止していて見えてる部分を「前」と言っている、と考えれば時間と空間で前後の用法に矛盾はない。ここでむしろ話題にしたいのは、前後の用法がどうしてこうなったか、ではなく、らむ太がどうしてそうでない解釈をしたのか、という点だ。
子供のうちは、過去より未来の方がうんと大きくて、未来には全ての可能性が詰まっている。らむ太はよく未来の予定を順序づけて話題にする。年が開けたら、つぎは節分で、次はgirl's dayで…とか、次のHalloweenは何を着ようか、今度のクリスマスのプレゼントは何だろう、2年生になったら学校でキャンプに行けるから早く2年生になりたいなあ、云々。これに対して過去の出来事は「こないだ」か「赤ちゃんだったとき」の2つのカテゴリに無造作に放り込まれている。彼にとっては未来こそ「見えている世界」で、そこに突き進むイメージを持っているんではないか。それが時間の「前後」の呼称に違和感を覚えさせるのではなかろうか。
kashinoさんの指摘はおもしろい。
http://kashino.tumblr.com/post/50637894453
欧米的に自分を主、環境を従として、自己中心から前後を決める決め方だと、たしかに過去が前で未来が後なのはオカシイとなる。しかし、東アジア的な考え方では、自己が環境に包摂され、自己が主にもなるし環境が主にもなることができる。そして、何が前で何が後ろというときに、ただちに認識できるものが前、ただちに認識できないものが後と決めれば、空間的な前後は自己が主で環境が従というように欧米的な基準と同様だけれど、時間的な前後は時間が主で自己が従となって欧米的な基準と逆になるのだと思いますよ。
このエントリを最初に書いた時には、英語のbefore/afterも同じじゃん、と思ってたんだけど、空間的にbefore/afterを使う場合って一列に何かが並んでいる時で、それは暗黙に逐次的な処理を含意しているのかなと思う。それなら時系列のbefore/afterが流用されたとも考えられる。 コメント欄のsodaさん紹介のリンクを見て気づいたが、front/backは空間だけだしな。 仏語のavantだと時間にも空間にも使うかな。aprésは時間のイメージが強い気がするけど。仏語忘れた。
むー、でもforward/backwardだと、時間的に使われた場合は前者が未来へ、後者が過去への移動って感じだよね。つまり時間的に前進するのは時間的に後へ移動することになる。時間的な「前後」を言う場合は自分が静止して過去を見ているイメージで、時間軸を突き進んでるイメージではないってことか。
Tag: 生活
よしき (2013/05/16 17:56:47):
atsushifx (2013/05/16 21:00:26):
shiro (2013/05/17 01:53:13):
tavi (2013/05/17 02:53:01):
soda (2013/05/17 03:28:17):
tavi (2013/05/17 18:00:41):
hirabayashi (2013/05/18 00:39:17):
shiro (2013/05/18 02:01:05):