2013/07/04
コミュニケーションと言語
まず雑談がキツいです。1日に数回くらいの頻度で、冗談とか仕事の愚痴(この部分のコードが汚い的な)を誰かが言い出して雑談タイムになります。周りの皆が盛り上がってる中で、会話に入れないので僕だけヘラヘラ笑いを浮かべながら仕事しています。この時の疎外感っていったらありません。
それよりも更にキツいのが飲み会で、話すペースは速いわ、どんどん話題は切り替わるわ、表現も崩れてスラングだらけだわで、正直何言ってるのか全く分かりません。自分と周りとの断絶が深過ぎて、映画か何かをスクリーン越しに見てるんじゃないかと錯覚するほどです。
雑談や飲み会レベルの英語を学校教育でやるべきかって話は もうさんざん突っ込まれてるみたいなのでここではやらない。
ただ、こういう記事を見ていっつも疑問に思うんだけど、こういう時に 疎外感や断絶感を感じちゃうのって、言葉のせいなのかなあ。
役者をやっていると、伝えるにあたって言葉の役割はほんの氷山の一角で、 本当に伝えるべきことは言葉にならない海面下の巨大な部分にあるってのを 繰り返し繰り返し叩き込まれるので、反射的にこういう意見には反応しちゃう。
もちろん、言葉が不要だと言うわけじゃない。言葉はコミュニケーションに あたってとてつもなく便利な道具だし、場面によっては不可欠な道具だ。
上に引用した状況だって、「英語が自由に使いこなせたら」解消できる悩みなのかもしれない。 問題は、この「(雑談や飲み会でネイティブ並に)英語が自由に使いこなせたら」という前提が とてつもなく大きな前提であることだ。
よくうちの息子が「どこでもドアがあったら日本に行ってこれを買ってこれるのになあ」とぼやいている。 そうだね、どこでもドアがあったらすぐに解決する問題はたくさんあるね。父さんも欲しいよ。 でもどこでもドアはない。ネイティブ並に英語を使いこなせるようになることは (どこでもドアと違って)現実に可能性があることではあるけれど、 英語以外にやるべきことがある人たちにとっては非常にハードルが高いゴールだ。 そんな高望みがすぐに手に入らないことにため息をついていたって何にもならない。
確かに、言葉がどうしても必要な場面では、ある程度言葉を使えないと話にならない。 言葉がどうしても必要な場面とは、(1)言葉でしか表現できない情報を交換する場合と、 (2)言葉を使うこと自体がゲームのルールである場合、だ。
前者はテクニカルなミーティングとか、役所での手続きなどで現れる。 ただし、工学の分野などでは、必要な概念を表現するのに自然言語よりもふさわしい表現が あったりするので(プログラマならプログラミング言語とか)、 仕事上で現れる状況でのハードルは低い。
後者はちょっと気取ったパーティでのやりとりとか、あるいはディベートとか。 そういう場面でも非言語的コミュニケーションは依然として大きいけれど、 言葉の比重も相対的に大きい。
しかしそれ以外の場面では、言葉がコミュニケーションに占める比率というのは 意外なほど低い。雑談や飲み会で語られる情報のうち、本当に知る必要があること、 あるいは本当に相手に伝えたいことってどのくらいある? 大部分の会話は、 本当に伝えたいことを喋ってるわけじゃない。 「私はこういう人間であることを知ってほしい」とか 「私はあなたがどういう人間か知りたい」とか「私に敵意は無いですよ」とか、 「私も楽しく笑いたいです」とか、そういうのが本当に伝えたいことだ。
何であれコミュニケーションを取りたい、というのが本来の目的で、 英語の雑談が皆の間ではずんでいるのは、皆にとってたまたま英語で話すのが 便利だったから選択された結果にすぎない。その前提は英語が不得手なあなたが 入った時に変わっている。あなたが輪の中に入りたいなら、 自分なりの方法で、自分が使えるあらゆる表現手段を駆使して、 伝えたいことを表現すれば良い。 それによって皆のコミュニケーションの手段も変化する。
子供は誰でもやってることだ。あなたも子供の頃はやっていたはずだ。 らむ太はプリスクールに入ってかなり長い間、英語で言いたいことがうまく言えなかったので、 演技をしたり、絵を描いたりして説明してたらしい。 人は母国語を獲得すると、それがあまりに便利なために、コミュニケーション≒言葉のやりとり、 と思い込んでしまい、言葉が使えなければコミュニケーションが取れない、 と考えてしまうのではないか。
「身振り手振りや拙い英語を持ち込んだら場の雰囲気を壊しちゃうかも」という 怖れがあるのかもしれない。でも、コミュニケーションっていうのは本質的に 自分と相手が干渉することで、それによって双方とも変化する。あなたが会話に参加しても しなくても場に変化が無いなら、参加する意味が無いよね?
また、コミュニケーションのうち言葉は氷山の一角だということは、いかに言語技術を磨いて 海上に見える部分を全て理解できたとしても、海面下の巨大な非言語情報を 理解できなければ本当に言っていることはわからないということだ。 非言語情報をよりよく理解するには文化や慣習、歴史など膨大なコンテクストを 参照する必要がある。 (以前も書いたけど、日本語はハイコンテクスト、英語はローコンテクスト、というのは 比較してるものが違ってるだけだと思う)。
例えばある種のジョークには、人生の一時期をその文化で 過ごしてないとまず理解できないものがあるだろう。 もちろんそういうのも含めて全て理解したいと思っても構わないけれど、 「決してわからないことはある」と線を引いてそこから先は諦める、 というのも必要な態度だと思う。
むしろ、異なる人生を歩んできてコンテキストを共有してない者同士、 もともとわかりあえないってことの方が当然で、 それなのに何らかのきっかけでふと「わかる」瞬間がある。 それがコミュニケーションのすごさで、そういう瞬間は自ら求めていかないと得られないんだよ。
たかしな (2013/07/05 12:32:06):