Island Life

< Gaucheの低レベルマクロ機構 | 簡単で直交性の高い道具を組み合わせる >

2015/01/12

Waldstein

アマチュアのピアノ愛好家有志による新年コンサートでヴァルトシュタインソナタを 弾かせてもらった。 これも子供の時から弾きたかった曲なのだ。

細かいところは相変わらずほつれているけど、 止まるとか余分な繰り返しみたいな大きな破綻は無かったかな。 (何か所か非常にやばい瞬間があるが…)

「芝居の時はあがらないのに演奏であがるのはなぜか」というのが ここ3~4年くらい考えていたテーマのひとつなんだけど、 今回また新たな知見が得られた。ような気がする。

舞台に立っている時の心理状態に、「入る」というのがある。 芝居が作り出す「場」に浸かっている状態。 マイズナーによる演技の定義は "Reacting truthfully to the imaginary circumstances" だが、 この "imaginary circumstances" が確固たるリアリティを持って 感じられている状態。この時はあがることがない。

舞台進行上、しかるべききっかけにしかるべき場所にいる、とか、 台詞を外さない、とかテクニカルに追わなくちゃならないことはたくさん あるんだけど、 場に対して素直に反応していれば演技が壊れることはないので、 そういうテクニカルな細々したものに振り回されることがなく、 むしろ余裕を持って対応できる。

(場に浸かっているからといって観客やら舞台装置やらが見えなくなるということはなく、 むしろそれらは明晰に見えていて、観客の反応や舞台装置の故障にも冷静に対応できる。)

芝居の訓練の多くは、必要なときに「入った」状態になるために 必要な準備の習得やそのための道具を揃えること、と言えるかもしれない。

演奏でも、音楽に「入る」状態があるようだ。出す音は全部意識してるんだけど、 何をどうすれば良いのかが自明な状態で、だから(脳からフィードフォワードで がちがちに制御するんではなく)出るべき音に身体をなるべく沿わせてやる感じ。

人前での演奏で上がりまくるというのは、うまく音楽「入る」ことができずに、 テクニカルなことを全て頭で制御しようとして、処理能力がパンクしているって ことかもしれないと思った。

今回も冒頭ではちゃんと入ってなくて、頭をフル回転させて制御しようとしてるんだけど、 第2主題の右手3連符のセクションに入るところの上行パッセージ(42小節目)、 処理が回らなくなってどの音を弾いてよいんだかわからなくなったことを覚えてる (んで、最後の拍は弾いてない)。 ただまあ、以前とは違って自分がそういう状態にあることは分かってたんで、 パニックにならずにどうにか前に進めたけど。

どこらへんかなあ、1楽章の展開部ではある程度入ってたのを覚えてる。 1楽章のコーダも間違いやすいんで普段は緊張するんだけど、 今回はかなり落ち着いてやれた。273小節1拍目の左手装飾音のAを外して、そのせいで 3拍目の左のスタート位置がわからなくなったんだけど、 ここは上のメロディさえ外さなければなんとなるだろ、と思いながら弾いてたり。

3楽章の難しいところで何度も抜けかけたけど、全体的に 鍵盤に大きな穴が開いてその向こうの世界に入り込む感覚がつかめつつあるので、 しばらくその感覚を追っかけてみよう。

Tags: Piano, 芝居

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