2013/02/04
笛を吹く
3月後半からのKumu Kahua Theatreでの公演『All That Remains』に出演が 決まったのだけれど、この芝居、私の役は "wooden flute" を演奏する場面がある。
フルートは大昔、友達のをちょっと吹かせてもらって酸欠でふらふらになった 経験しかないが、一朝一夕に吹けるようなものではないことは重々承知している。 特訓が必要だ。 楽器屋というものがハワイにはあまりないので (調べるといくつか出てくるけど、 品揃えは不明)、ネットで探した。あまり高いのを買うつもりは無いが、 安すぎてピッチが不安定だったりすぐ壊れたりしても困る。値段と入手しやすさ、 及びわかる範囲の評判を見比べて、インド発祥の竹笛Bansuriをテキサスの工房に注文。 初心者向けと言われるG管にした (C-Gと表記されてる。ドレミファソラシドのドがGになる)。 届いたのが先週の火曜日である。
- 1日目: 全穴開放の「シ」音とその下の「ラ」「ソ」を辛うじて出せたがすぐ息が 切れる。MM=60で4拍ロングトーン4拍休み、を出せる音について繰り返す。ふらっときたら一休み。
- 2日目: 音域が「シラソファ」と上の「ド」に。各音はまだ4〜5秒が限界。 息をだいぶ無駄にしてる気がするので、効率よく響く場所を手探りしてる。
- 3日目: 下は「レ」まで出るようになったけど「ミ」「レ」は響かせるのが難しい。 「シラソファ」についてはMM=60で5拍ロングトーン3拍休み、ができるようになった。
- 4日目: 最低音の「ド」が難しい〜。響くスイートスポットがうんと狭い感じだ。
- 5日目: 引き続き最低音の「ド」の練習。休んだ後の一発目は出せるんだけど、 少し吹いて指の形とかを動かすと響きのポイントがわからなくなって音がでなくなる。 まあ、まだ安定しないものの、やっと「ドレミファソラシド」のスケールが吹けるようになった。
- 6日目: 下のオクターブ「ドレミファソラシド」MM=60でそれぞれ8拍ロングトーン持つようになった。 全穴開放の「シ」の音高が少し下がりがち。 上のオクターブはまだ息が長く続かない。音域は上の「ファ」が上限。 一番下のドから上のミまでの範囲で「ドミド」「レファレ」〜「ミドミ」「レシレ」〜、 「ドミソミド」「レファラファレ」〜「ミドラドミ」「レシソシレ」〜 等繰り返し。
- 7日目: 「ドレミの歌」が吹けるようになったぞー。音はひょろひょろだけど。 下の「ド」は、そこから出発して上がる時はいいんだけど、上から順番に下がってくと 出なくなる。「ソラシ」あたりが響く時のアンブシュアと下の「レド」あたりが響くそれが ちょっと違う感じ? 二番目のオクターブの「ソ」はまだ一瞬しか出せない。
さてさて、公演までに使えるレベルに達するだろうか…
★ ★ ★
(追記2013/02/07 11:03:52 UTC): もうちょい勉強したら、Bansuriだと上3つの穴を塞いだところを 基準(Sa)にするらしい。つまり上で書いてる「ファ」を実は「ド」というべきだった。 なるほど、それでC-Gと書いてあるわけか。つまり基準音がC、最低音がG。 素直な指使いで吹くとリディアンスケールみたいになる (全穴開放が「ファ♯」)。
上オクターブのA-B-C-Dあたりも出るようになったがまだ音が鋭すぎるし息が続かない。 いろんなビデオを見てもこのあたりまで綺麗に響かせないと曲にならなさそうなんで がんばるしか。
2013/01/31
ピアノレッスン80回目
- Debussy: Pour le piano
- 通し。Sarabandeはほぼ完成。Toccataはまとまってきたがひっかかるところを重点的に。
- Bach: Well-Tempered Clavier Book I No. 3 (C♯ major)
- Fugueだけ。MM=69。あれ、ドビュッシーの後に弾くとなんだか指がこんがらがるぞ。先生曰く「だからみんなBachはプログラムの最初に弾くのよ。」
作曲家ごとにモードがあって、頭の中から指の形まで、変わる気がする。 別に表現とか深く分かってるわけじゃなくても、弾きやすい形を考えてゆくと 自然にそうなるように思う。ドビュッシーはToccataの速いパッセージでも指を寝かせた方が 弾きやすいようだ。同じようにころころした感じでもバッハの3番フーガは 指を立てた方が楽。
Tag: Piano
2013/01/31
コンピュータの壊れ方
かみさんのPC (最近はらむ太もちょくちょく使うので「家族用PC」になりつつある) で ブラウザがよくクラッシュするようになった。Flashプラグインあたりかなと思って apt-get upgradeかけてみたらfailする。エラーを追っかけたら /var/lib/dpkg/available がおかしい。 中を見たらところどころ変な具合に文字が置き換わってる。
あ、と思ってリブートしてmemtest86を走らせた。エラーがぞろぞろ。 むしろこの状態でそれなりに動いているというのが不思議ではある。早速新しいメモリを発注。
これまで自宅でも、ノートブックと自作デスクトップと合わせて 両手で足らないくらい使ってきたけど、だいたいPCというのはだんだんおかしくなるものだ。 グラフィックカードもこんな感じでいかにも徐々に壊れてくし、ディスプレイも、CRTの時代には色がおかしくなるとか時々画面サイズが変わるとか、LCDだと線が出てくるとか時々暗くなるとか(バックライトが壊れるのって多いよね)。全く突然に壊れたのって電源くらいかな。
なので、こんな記事には違和感を覚える。
パスワードは手書きでメモに残せ - 小田嶋隆の ア・ピース・オブ・警句
実体験から申し上げるに、パソコンは、あるタイミングで頓死するものだ。あれは、徐々に壊れるような柔軟な機械ではない。天寿をまっとうすることもない。大往生もしない。デジタルのこしらえものは、ある日突然、箱の中のカブトムシみたいに急死する。それも、多くの場合、働き盛りの一番忙しいときに。
それは多分、壊れかけの時に気づいてないだけでしょう、と思ったら 一応、小田嶋氏も予兆について書いている。
とはいえ、注意深く観察していれば、かすかにではあるが、予兆が無いわけではない。
たとえば、ハードディスクがクラッシュする前段階では、ディスクアクセスの際に異音が発生している例が多い。
いやそれは「かすか」じゃなくって思いっきり警告段階ですやん。あの人亡くなったのか、そういえば以前、階段登るときによく左胸がきゅーっと痛くなるってこぼしてたなあ、あれが予兆だったのか… って、その時すぐに医者に連れてけ、という話ですな。人体と違ってPCは簡単にパーツ交換できるんだし。
でも多分、自分だって、中身がよく分からないものについてはたくさんの予兆を見逃していて、突然使えなくなった時にびっくりするんだと思う。それは「デジタルのこしらえもの」に特有の話でもなんでもなくて、アナログな機械であっても、生物であっても、環境であっても同じことで。
上記引用部分の「デジタルのこしらえもの」という言い方は、 生物のように有機的で「動いている/壊れている」とはっきり割り切れないものとの 対比だろうけれど、ビットエラーがんがん出てるメモリでも曲がりなりにある程度 使えちゃってるかみさんのPCとか、デジタルの機械だって複雑化してくると だいぶ有機的な様相を呈してくると思う。
(もっとも、グランドの取り方が甘くてむき出しの基板に手を近づけると誤動作するような 「マイコン」を組み立ててた世代としては、デジタル回路ってのは アナログ回路が毛皮をかぶってるだけって認識だけど。)
あと、「どこが壊れたのか」という見方についての違いもあるかもしれない。 「電源が飛んだ」「HDDが読めなくなった」「LCDのバックライトが飛んだ」、どれも、 PC全体をひとまとめにしていたら「PCが壊れた」としか認識しないけれど、 問題の切り分けが出来ていると壊れたのはPCではなく個々のパーツで、交換すればいいだけだ。 「電源の中のこのコンデンサが飛んだ」とかまでは気にしないので、これも程度の問題ではあるけれど。 例えばリモートで何十台というマシンを使っていると、ちょくちょく壊れるノードがあるけれど、 何が原因で壊れたのかは気にならない。 部分的に壊れても仕事は続けられるようになっているし、壊れたノードはそれごと 管理者に取り替えてもらうor直してもらえばいい。ネットワーク全体として見たら、 いくつかノードが壊れても動きつづけるシステムは、やっぱり有機的な感じがする。
つまり「交換すれば元通り使える、という状態なら、突然死するとは認識されない」ってことだな。
2013/01/25
プログラムの手入れ
バグを直すついでに周辺のコードを眺めていると、 数年前に書いたコードが妙に野暮ったく見えることがよくある。 ここ数年の経験からより素直な書き方を見つけていたりとか、 最近作ったうまい抽象化をするユーティリティがここでも使えると発見したりとか。 あるいは、数年前には気にしていた制約、性能や互換性の問題が、 今やもう問題ではなくなっていて、 そのため制約を避けるまわりくどいコードをばっさり削れるのに気づくこともある。
そういう細かな修正をやっていると、なんだか庭や畑を手入れしているような、 あるいは(より大きなコードベースでは)裏山の雑木林を手入れしているような気になる。
コードというのはビットの塊で、一度書いて保存すれば永久にそのままだ。 草木のように勝手に生い茂ったり、土砂のように雨で流れたりするわけじゃないし、 金属のように錆が出たりするわけでもない。 それなのに、同じような感覚を覚えるというのはおもしろい。
コード自身は変化しないけれども、コードを読み書きする自分とか、 コードを取り巻く環境が変化しているので、相対的にまるでコードが勝手に 埃だらけになって錆が浮いてたり蔦が這ってたりするように見えるわけだ。
そういった意味ではコードは十分「ナマモノ」だと思う。確かに、時には20年30年という 単位で使われ続ける、セコイアの大木のようなソフトウェアもあって、 その木の上に独自の生態系を築いていたりする。その生態系の住人にとっては 足元の大木は大地と同じくらい確実なものだろう。けれど気づかないうちに、 大木には大きなうろが開いているかもしれない。
しばらく前に、とある歴史あるライブラリが特定の入力パターンで遅くなるというのを 見つけて、ああこれは良いアルゴリズムを知ってるからいっちょやったるかとソースを覗いたら、 TAGBODYとGOとSETQがてんこもりでそっとEmacsを閉じた。 明らかに完全に書き直した方がいいけれど、現状と同じだけコードを「枯れさせる」まで 面倒を見る気も起きない。でもそういう細かいことが積み重なって、 うろが広がってゆき、いつか倒れるのかもしれない。 (何十年と安定して使われ続けてきたコードでも環境が変わればバグが出ることがあるので、枯れたコードが安定した地盤になるという保証はない。)
これまた庭や裏山と同じで、誰かが常に「気にかけていること」が重要なのだと思う。 特に理由がなくても定期的に見回って、散らかっていると思えば片付け、 風通しを良くして空気を入れ替える。時々意味もなくGaucheのコードを眺めては 古くさいインデントを直したりするのは、そういう類の手入れなんだと思う。
でもこういうあんまり直接的な意味が無い作業って、 頼まれ仕事の「他人様の」コードだとちょっとやりづらい。 そのコードの成長をずっと見ていて、これからもずっと自分が面倒みてゆくと 思っている人だからこそ見えるものってのがあるし。
プログラムは表現の手段として、小説や音楽などの表現と並べて語られることがあるし、 私も類似性をよく見出すけれど、この「ナマモノ」感はちょっと他の表現手段と違うかもしれない。 ロングランの舞台とかは近いかもしれないが。 (あと、ソフトウェアでもコンソールゲームのようにリリース時点で固定されるものもあるから 境界は曖昧だけど)
これはソフトウェアが「書かれた」だけで 完結するものではなく、「使われること」で完成するからかな。 その点では音楽や戯曲が「書かれる」だけでは完結せず「演奏/上演」を必要とするのに 似ているけど、音楽や戯曲は最終的な受け手以外にperformする人がいるのでまたちょいと違うか。 ソフトウェアの場合、最終的な受け手が「使う」わけだしな。
Tag: Programming
2013/01/24
ピアノレッスン79回目
- Bach: Well-tempered Clavier Book I No. 3 (C♯ major)
- Prelude MM=80。good。
- Fugue MM=63でスタートしたら途中で崩壊。MM=60で仕切り直し。テーマを浮き上がらせようとするとそっちに気を取られて他声部を忘れる。
- Scriabin: Sonata No.4 1mvt
- Debussyの次にやる予定の曲だったけど、ここしばらくずっとDebussyばかり見せてるのでちょっと気分を変えるために弾いてみた。
- 三連符vs四連符 とか 三連符vs五連符 とか 四連符vs五連符、とかがてんこもりなので、四分音符より小さい単位でメトロノームを刻めない。なので一番遅い四分音符=40でこけつまろびつ通し。
ドビュッシーはあと2週間くらいで仕上げたいけどなあ。
Tag: Piano
Comments (0)