2012/10/24
ピアノレッスン66回目
- Liszt: Chasse-Neige
- MM=80くらい。
- 冒頭、トレモロよし。よくメロディが浮き出るようになった。後半のジャンプのミスを根気よく潰すこと。
- Bach: Well-tempered clavier Book I No. 4
- Prelude MM=80。
- Fugue MM=72。まだ音符追うのに必死で各声部が聞こえない。2つづつ声部を抜き出して練習するとよい。
Tag: Piano
2012/10/21
『Frankenweenie』〜愛がなくちゃね〜
子供にせがまれて 『Frankenweenie』 を観にゆく (らむ太はTim Burtonのストップモーションアニメーションが大好きなのだ)。
作り手の、映画作りに対する愛が伝わってきて素晴らしかった。 画面からも、ああ本当に好きで作ってるんだろうなあというのを感じるんだけれど、 それだけでなく、作るものに対する愛というのが綺麗に物語の構造に組み込まれていて、 全く押し付けがましくない。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、『現代のプロメテウス』なんて 副題がついているもんだから、科学が神の領域を侵すことの是非というテーマに 結びつけられることが多いけれど、物語としてのテーマは実はそこにはなくて、 あれは「無責任な親/造物主」と「見捨てられた子/被造物」のドラマである。 オリジナルのヴィクター・フランケンシュタインは興味本位で人造人間を作るけど いざできたら怖くなって逃げ回る (このヴィクターのへたれぶりが実にしつこく描かれる)。 被造物は、名前もつけられず、ただ怪物などと呼ばれ、ぐれてほんとうに怪物になっちゃう。
ここを押さえておけば、『Frankenweenie』を観た後子供から必ず発せられるであろう 「どうして○○は××になっちゃったの?」という質問にきちんと答えられる。 まあ、映画中でもさらりと台詞があるけどね。
途中、科学に対する住民の反発が高まったところで、科学はどこまで扱うべきかみたいな テーマに踏み込むかと思ったが、そこの処理も巧みだった。つまり、 正解はどちらの側にもない。
ところで、冒頭にヴィクターが自分で撮影した映画を両親に見せているが、 これが2重の意味で良いなと思った。ひとつは、ヴィクターが映画作りを楽しんで それを見せることを誇りに思っている、という構図が、この作品の作り手の姿勢と 入れ子になっていること。もうひとつは、作り手と被造物の関係というテーマのうち、 とくに被造物=映画である場合が強調されること。
つぎはぎの縫い目だらけでも愛をもって作られ繰り返し観つづけられる映画と、 作れるからというだけで作られ、派手な映像や大げさな宣伝で売られるけどそれっきり忘れられる映画、の対比と見てもおもしろい。
Tag: 映画
2012/10/20
嫌らしい書き方
内田樹さんのエッセーやブログのような「軽い」読み物は、 議論としてはユルくて「ちょっとそれは…」と突っ込みたくなるところが多いが、 あれはそういう芸だと思っている。手法としてはPaul Grahamのエッセイも似たところがある。 直感的な洞察から手持ちの部品を使って議論の骨組みをぱぱっと組み立てて見せて、 一つの見方の提示として読めば興味深いけれど、現実の問題にそのまま当てはめようとすると 多分強度が持たないだろうなというところ。でもそれは本人も百も承知で、 必要ならば他の人が突っ込んで補強してくれるだろう、ってとこまで (意識的にか無意識的にか)計算しているのだろう。
だから私も、まんまと載せられてるんだろうなと思いながら時々突っ込んでいる。
ただ、今回のこれはちょっと違った意味で気になった。
想田和弘監督の、平田オリザ氏についてのドキュメンタリー『演劇1』『演劇2』に寄せた文である。 これを読んで私も映画を観たくなったので、その点においてはこの文章は成功している。
気持ち悪いのは、オリザ氏の方法を説明するにあたって、 「欧米」を持ち出しているところとだ。
まず、オリザ氏がスタニスラフスキーシステムを批判するという文脈で、次のような解説が挿入される:
スタニスラフスキー・システムはいわゆる「新劇的」演技の基本をなす演劇理論である。自分が演じる役柄について徹底的なリサーチを行い、その役柄を俳優が生身に引き受け、舞台上では、その人物がその劇的状況に投じられた場合に、どのようにふるまうか、それを擬似的に再現しようとするのである。「役になりきる」演技術である。古くはマーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、近くはロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノら、ハリウッドきっての「名優」たちがこのメソッドの信奉者だった。
ここで説明されているのはどっちかというとリー・ストラスバーグの『メソッド』だよなあ、 とは思うけれど、まあ両者の違いはこの文脈では枝葉の話だし、 不特定多数に説明しなきゃならないとしたらこのくらい大まかでも問題ないだろう。 だからこの解説が内田氏によるものなのか、映画内で説明されたものなのか、 それはどちらでも良い。
その後で、内田氏は自身の発見を述べた後、こう記す:
こういう「虚の過激さ」というのは、欧米のドラマツルギーのうちにはまず見ることのできないものである。
かの地では、「自分はこう思い、こう感じる」ということを明晰判明かつはっきりした声で言わないと「存在しない」かのように扱われる。だから、過激さを表現しようとする人々は目を剥き、声を荒立て、口から唾を飛ばし、汗をたらし、舞台を走り回るようになる。でも、想像すればわかるけれど、みんながそういう演技をする芝居に私たちはたぶんすぐに飽きてしまう。
この文は、それぞれを単独で取り出せば、間違いとは言えない。 「欧米のドラマツルギー」に観られないのは、内田氏がオリザ氏に見出した「虚の過激さ」 であるし、 「目を剥き、声を荒立て云々」と言った演技は(それがどこで成されたものであれ) すぐに飽きられてしまうというのも正しい。
ただ、これらをつなげてさらっと読むと、
- 平田氏のやり方 (内面を考えず表象を厳密にコントロールする) と「欧米のやり方=スタニスラフスキーシステム」 が対置されている
- 「かの地では〜そういう演技をする芝居」がハリウッドに代表される「欧米のやり方」である
ような印象を受けてしまう。芝居をやってる人ならおかしいとすぐに気づくけれど、 そうでない人はなんとなく上のような印象を刷り込まれるのではないか。
その印象が正しくない理由をいくつかあげておく。
- スタニスラフスキーシステムは、まさに「過激さを表現しようとする人々は目を剥き、声を荒立て、口から唾を飛ばし、汗をたらし、舞台を走り回る」という「退屈な」芝居を避けるために生まれた方法論である。
- 内面から作るのでなく、外見から作ってく芝居(outside-in)は欧米にもある。というかここで「欧米」と一緒にするのがちょっと不可思議で、自分の印象ではヨーロッパ(特にイギリス)ではoutside-inも結構根強いと思ってた。ヨーロッパで芝居したことないから聞き齧りだけど。
- アメリカに限っても、「役になりきる」メソッド以外に主要な演技術はあり、 メソッド批判者も多い。 マイズナーテクニックもスタニスラフスキーからの派生だけれど、 マイズナーアクターとメソッドアクターのアプローチの違いはジョークのネタになるほどだ (どちらもinside-outではあるけれど)。
内田氏の中にぼんやりとした「欧米の芝居」の印象があって、 それが意図せず現れてしまったのではないか、という気がする。 なぜなら、この文章から「欧米」への参照をすっぱり抜いたところで、 紹介文としての強度はいささかも変わらないからだ。
自説を主張するエッセイにおいて嫌いなものをそれとなくけなすこと自体は 当人の勝手であるけれど、オリザ氏や想田和弘監督の仕事にかこつけて 印象操作を忍び込ませるのは、たとえそれが無意識のものだとしても 「嫌らしさ」を感じる。
Tag: 芝居
2012/10/18
ピアノレッスン65回目
- Bach: 平均律1巻2番 (c minor)
- ok!
- Bach: 平均律1巻4番 (c# minor)
- Prelude MM=72、Fugue MM=52。
時間切れでLisztは無し。でもバッハばかりでは疲れるので最後に RavelのMenuet sur le nom d'Haydnをちょろっと弾いて締め。
Tag: Piano
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