2011/12/15
ピアノレッスン27回目
- 基礎: スケールとアルペジオ、依然としてM=144。苦手だった調もわずかづつスムーズになってきているような気がする。
- 今回からドビュッシーのベルガマスク組曲を始めた。昔チャレンジしたんだけど、ドビュッシーって音符を追うだけじゃ全く曲にならなくて、どうしたらいいのかわからなくて断念してたのだ。なので再挑戦。まずはプレリュード。ちゃんと見てくとなかなか難しい。
- あとカプースチンのOp40-2も弾いた。カプースチンについてはちょっと思いついて新しい練習法を試してるんだけど、まだその方法ではゆっくりとしか弾けないので、普通に弾くと前の癖が出てきてところどころ崩壊。でも多分新しい練習の効果は出てきてる。
Tag: Piano
2011/12/15
Meisner intensive 3回目の6
先週渡されたスクリプトを使って、シーン。
台詞はマイズナー流 (一切の感情を載せずに覚える) で入れておいて、 これまでにやったRepetition, Independent activity, Emotional preparationを実際のシーンで応用する、という仕上げの回。
先週、independent activityが初めてうまくいったので、これで真髄をつかんだかも、なんて思っていたのだけれど、いざシーンになってみると難しい。相手をよく聴いて、反応する、ただそれだけなんだけど、そのただそれだけが難しい。シーンの間はちゃんとやってるつもりでも、振り返ると自分のことしか気にしていない。
でも、「どういう状態が『うまく行ってる』状態なのか、その時になぜそれがうまく行っているのか」って点に関してはかなり理解が進んだと思う。練習の機会を多く取って、その状態を目指せば、徐々にできるようになるんじゃないかな。どうやって練習の機会を多く取るか、考えないとならない。
★ ★ ★
今回のマイズナークラスにはティーンの男の子が一人参加してた。中学生くらいかな? 反応が素直で、色々フィルタかけちゃう大人より上手い。あれを見習わないとならない。
時々、芝居にどっぷりだった学生の頃に、もっと体系的に演技の訓練を受けていたらどうだったかなと思うこともある。でもこの歳だからこういう理解ができる、っていうのは確かにあって、きっと10代や20そこそこでは同じようには理解できなかったろうな、とも思う。まあその時は別の理解に至ってたかもしれない。それはわからない。わからなくてもたまたま勢いで出来てしまうこともあって、特にあの頃は変に頭で理解するよりも勢いの方が大切かもしれないし。
Tag: 芝居
2011/12/12
Content ID Match
YouTubeに上げた演奏動画のいくつかが "Matched Third Party Content" とマークされてる (Cf. テンペスト )。他人が著作権を持つコンテンツとマッチしてるよってことだ。多分音声などから特徴量を抽出してマッチをかけてるんだろう。
特に不都合はないのだけれど(統計情報が第三者に見えないとかマネタイズできないとかその程度)、気になるので試しにdisputeしてみた。
テンペストの動画で当初表示されてたマッチング:
Entity: Music Publishing Rights Collecting Society Content Type: Musical Composition Entity: Music Publishing Rights Collecting Society Content Type: Musical Composition Entity: Music Publishing Rights Collecting Society Content Type: Musical Composition
3つ出ているのは楽章毎にシグネチャを登録してるからかな。 ショパンのエチュード Op25 No1-5では同じEntityから4つマッチしていて、 同じくショパンの エチュード Op25 No10-12では2つマッチしてる。それぞれ5曲中4曲、3曲中2曲がマッチしたのだと思われる。
Disputeのプロセスは、特に長々と理由を説明する必要はなく、"my content is misidentified" みたいな項目にチェックして署名がわりに名前と誓約をタイプするだけ。とりあえずテンペストについてやってみた。
すると翌日には "Music Publishing Rights Collecting Society" からのマッチングは消えたんだけど、
Your dispute is still awaiting a response from these content owners: Entity: SME Content Type: Sound Recording As a result, your video is blocked in these locations: Germany
という表示に変わって、ドイツでブロックされてしまった。
動画を見ると、
Artist: Murray Perahia Buy: Buy "Sonata No. 17 for Piano in D Minor, Op. 31, No. 2 ("Tempest"): II. Adagio" on: AmazonMP3, iTunes
なんていうリンクが再生回数の下に出てくるので、SMEが登録してるこのピアニストのサウンドトラックにマッチしたということだろう。第2楽章だけだが、マレイ・ペライアの演奏に似ていると判断されたというのは喜ぶべきことなのかもしれない。でもドイツにいる友人に見てもらえないのはちょいと困る。
とはいえこの段階ではこちらからアクションを取れないようなので、SMEの担当者がチェックして「なんだ素人の演奏動画じゃん」とフラグを下ろしてくれるのを待つしかない。
で、さっき管理画面を見てみたら "Matched Third Party Content" が外れていた。ブロックされてから実質3日くらいかな。SME側でどのくらいこういう対応が発生するのか知らないが、人間が介在するとしたらわりと速い対応かなと思う。
まったくの推測だけど、最初の "Music Publishing Rights Collecting Society Content" ってのはかなりユルいマッチングでとりあえず予防的にフラグたてといて、disputeがあったら機械的にそれを降ろすかわりにより厳密なマッチングをかけるのかな。 最初のマッチが "Type: Musical Composition" になってるから、音ではなく単に曲名やタグでマッチかけたのかなとも思ったが、ショパンやベートーベンの著作権はとっくに切れてるからマッチかけるまでもないしなあ。
Tag: Piano
2011/12/11
利己/利他
『行動の源2』のコメントで「利他的行動についてはどうなるの?」という話題が出たのだけれど、 「好奇心」や「表現欲」にドライブされる行動が利己的であるとは限らない。 結果として利己的になるものも利他的になるものもあるだろうけれど、 いずれにせよそういうのは外野が評するものであって、 行動してる本人にとってはあまり関係ないんじゃないかと思う。
強烈な好奇心や表現欲のもとでは、そもそも自己というものが小さくなってゆくんじゃないか。「自分が」表現したい、というより、「これから作られる作品」が自分を使ってその作品を作らせる。God's instrumentという表現があるが、いわば自分がミューズのinstrumentになるというか。
Paul Grahamの『Taste for Makers』にこんな文がある。
模倣に対する態度はしばしば一巡する。初心者は知らず知らずのうちに模倣する。そのうち、彼は意識的に独自性を出そうとする。最後に、独自性よりも正しくあることがより重要だと気づく。
二番目の段階では「自分/他者」にとらわれているが、第三段階まで行くともう自分とか他人とかあまり関係なくなる。「守破離」の「離」も似たような話だと思う。
以前似たようなことを書いた(エゴと創造)が、自分がどうの、他人がどうの、ってことにとらわれるのはノイズになって、行動の足を引っ張ることになる。利己心や利他心はきっかけにはなり得るけど、それによって「あるべき世界/表現すべき対象」が定まってからは、それを実現したいという欲求がドライビングフォースになる。んじゃないかな?
利己的な動機でスタートしても出来たものが多くの人を豊かにした、っていうことはあるし、利他的な動機でスタートしたのにみんな不幸になってしまった、っていうこともある。「利己/利他」を最終目的として何かを始めたり、 他人の行動を評価する時に「利己/利他」の軸を持ち込むのは、ちょっと危うい。
関連エントリ:
Tag: ものつくり
2011/12/09
祈りの機能
考えながら書いていたのであまり明確ではなかったけれど、 『行動の源』と 『行動の源2』で 考察していたのは、行動をドライブする力、なにか具体的な行為を成し遂げるまで持ってゆく 源泉は何だろう、ということだった。
他者への共感というのは、行動のきっかけにはなる。 でもそれは最初の一瞬のことで、 具体的に何をどうすれば良いかを考え実行に移し完遂するためには、継続的に力が供給される必要がある。で、例えば共感によって「この世界を変えたい」と思えば、 後の行動をドライブするのは表現欲になるんじゃないかなと。 共感だけからは具体的な行動は出てこないけど、 表現したいと思うことで、何をするかが具体化されるわけだ。
そういう継続的なドライビングフォース、という意味では、好奇心と表現欲でかなりカバーできるんじゃないか、というのが最初のエントリ。で、それらを取り除いたとしても、 「何も変えようとしない(変えられない)、何を知りたいわけでもない、けれども、多大なるエネルギーを費やして、ただその人と共に居る」という行動が残るかなあ、というのが2番目のエントリ。
合理的に考えると、そういう行動は「役に立つ可能性」がとても低い。 それでも敢えて機能的に解釈すれば、たまに確率の低い事象が起きることがあって、 その事象を拾い上げるのに、そういった行動が必要である、ってことかもしれない。 そうだな、わざとらしい例だけど、 回復の見込みのない昏睡状態の家族にずーっと付き添っていたら、 わずかな変化を察知できて、それが奇跡的な回復につながった、とか。 付き添った人は、漠然とした希望は持っていただろうけど、 具体的に何をどう変えようって行動をしてたわけではない (何をどう変えたら良いのかなんてわからない)。 でもそういうふうにケアする人がいなかったら、回復の兆候は見逃されていたかもしれない。 あきらめないその人の姿勢を見て周囲の人が影響されたかもしれない。
何かを変えてやろう、と狙うのではないけれど、 結果的に何かが変わってしまう、っていうことはありえる。 確率は低いとしても、事例が膨大であれば、集団としてそういう例外的事象を拾うことができるかもしれない。
予見不可能な低確率の事象を拾う担保として、 そういう行動をしたいという欲求がプログラムされている、とするのはどうだろう。 それは大きな目で見れば、集団の変化がローカルマキシマムな袋小路に入って出られなくなるのを 防いでいるとも考えられる。
いわゆる祈りっていうのは、そういう機能も担っているんではないか。 祈ったからといって何かが具体的に変わるわけではないけれど、 心に掛け続けていると、何かのきっかけで思わぬ変化が起きるかもしれない。 その確率は低くても、心に掛けている人が膨大であれば、ひとつやふたつは、 そういう事象が起きるかもしれない。奇跡の担保。
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