2007/09/18
人と違うこと
On off and beyond: 「迷ったら人と違うことをする」ということについて
「迷ったら人と違うことをする」というのは、本にも書いたし、メッセージとして日本のワカイ人に伝えたいなーと思っていることでもある。でもその伝えたい相手は
「ついつい人と違うことをしてしまうのだが、それではいけないのではないかと思い、自分を殺して世の中標準にあわせている人」
で、そういう人に
「人と違うことしても大丈夫。死んだりしない。安心して自分の好きな道を選んでください」
と言ってあげたいなぁというのが趣旨だったのでした。
わかるようなわからないような。例えばPaul Grahamが 「みんなが主流の言語で開発してるときにLispを使えば勝てる」と 言うのはよくわかる。彼のエッセイは上に引用したChikaさんの意図と似て、 非主流である技術を使うことにしりごみする必要はないよ、というメッセージだ。
けれど、例えば芝居がうまくなりたかったら、「クラスやワークショップに通うかたわら、 オーディション受けたり劇団に所属したりして経験を増やしてゆく」っていうのが 普通のことで、他の道も無いわけじゃないだろうけど、ここで「人と違うこと」をする メリットってあまり無い。(もちろんオーディションや舞台ではみんな「人と違うこと」を しようと思ってるわけだけど、常に人と違うことをしようと考えている人々の集団でさえ、 集団として一歩引いてみれば同じようなことをやっている人たちである、というのが おもしろいところだ。日本の芝居仲間とハワイの芝居仲間の行動を比較すると、 たぶん適当にサンプリングした日本人同士の行動を比較するよりも多くの共通点が 見つけられるのではないか)。
だから無限定に「人と違うこと」という言明にはあまり意味が無いと思う。 Chikaさんのエントリの結論に同意するかどうかはともかく、前提の 「迷ったら人と違うことをする」という話にひっかかりを覚えないとしたら、 それは対象としている集団について暗黙の仮定を置いているってことで、 その仮定が何なのかを考えてみるのはいいことなんじゃないだろうか。
「『他人が《普通》と考えているだろう』と自分が考えていること」を 認識するってこと。この入れ子関係が面白い。 実はこれがコメディの原点だ。
「普通の人」を演じるのは「変な人」を演じるよりずっと難しい。 なぜなら「普通の人」なんて人はいないからだ。よく見れば見るほど、 人は一人一人違う。普遍性は個人にではなく、 「その人が『他人はこれを《普通》と考えているだろう』と考えて、 それに影響を受けるさま」にある。 (本当は「変な人」も難しい。リアリティがある「変な人」とは、 上の入れ子構造の『他人は〜だろう』の中だけが極端に違っていて、 その外側のフレームは普遍的なものであるような人だ。)
Tag: Career