2008/01/20
元東大生による就職活動異論
この人は至極正しいことを言っているのだけれど、 その前提が語られていないのが気になった。
東大生による就職活動論より:
自分のいままでの人生を振り返って、自分の人生目標・将来の夢を心の底から 設定できることは必須です。それは、どんなに辛くても、その実現のためには 如何なる苦労も厭わない覚悟があることを意味します。
1段目で心の底から設定した夢・目標から現在に至るまで、きちんとブレークダウンして、 語れなければなりません。夢の実現、なりたい将来像の実現のためには、 無数の方法があるはずです。その中で、なぜこの道なのか。論理立てて語れる必要があります。 要するに、自分の人生ちゃんと考えて行動してるのか、ってことです。
「大学時代○○成し遂げました」系は多いですし、誰にも真似できない 凄いことをやっている学生もたくさんいます。ただし、それって再現性あるの? まぐれじゃないの?社会に出て、この会社でその強みを発揮できる保障あるの? と聞かれたら答えられますか?
細心の注意を払って、努力すべきポイントです。あなたの話し方、言葉遣い、 ちょっとした動き、雰囲気など全てを総合的に判断されます。いかに企業が 求める人物像を読み取り、アピールし、一緒に仕事をしたいと思わせるか。 ここまできたら、自分のコミュニケーション能力をフル稼働し、 何が何でも説得するしかありません。
前提というのは、この話が就職のひとつの形態、すなわち、 「毎年決まった時期になると、特定の学年の学生と企業が会社説明会から 始まる一連の行事を経て、最終的に一部の学生が内定というゴールに至る」 というプロセスを対象にしている、というものだ (さらにその前提には、中学校から高校へ、高校から大学へ進む時に入試が あったように、学生から「社会人」になる時に就職という関門があるという 錯覚があるように思われる。 Cf.Hiring is Obsolete)
実際には就職へのパスは新卒就職活動だけではないし、 学生と社会人は排他的なものではない。 特定の形態の新卒就職活動が広まったのは、ひとえに効率が良いからだろう。 (職種が多様化し、かつ情報流通コストが下がった現代において 本当にそれが社会的コストを最小化しているかどうかには若干疑問があるが)。
元エントリは、この「新卒就職活動」というゲーム(そしてより広義には、 それを選択している特定の企業社会)において勝つために 最適化されたアドバイスだ。それ自体にケチをつけるつもりはない。 ただ、それが特定のゲームにすぎないことを読者が自覚していないと、 少々危険であり、またもったいなくもある。
もったいないの方から行こう。自分のやりたいことを知り、実現方法を選択し、 さらに相手に一緒に仕事をしたいと思わせる、これは就職活動に限らず、 人生のあらゆる面で何かを実現しようとする時に最終的に必要になることだ。 当然「新卒就職活動」という特定の場面でも役に立つのだが、 そのコンテキストに限定して語れるほど小さなテーマでもない。
なにしろ本当に自分のやりたいことを知り、とことん一緒に仕事をしていきたいと 思ってもらえる相手を見つけるのは、ものすごく難しいことなのだ。 一生かけて追い求め、人生の最後に振り返って一度でもそれができてたら ラッキー、というくらいの。 たまたま自分の特性を早期にピンポイントで発見できたごく少数の人間以外にとって、 たかだか20年ばかりの経験と頭で考えるような「本当にやりたいこと」など たかが知れている。
人生は、その気になれば尽きせぬ発見の泉だ。「本当にやりたいと思ってること」を やっているうちに思わず新しい鉱脈を発見して、それまで思っていた「やりたいこと」は 単なる通過点にすぎなかったのだと気づく。少なくとも私にとってはそれが人生の楽しみだ。 だからあまり早期に「将来の夢」を設定して細かくブレークダウンすることにより、 逆に自分の将来を固定してしまうのは、ひどくもったいないことだと感じる (Cf. What You'll Wish You'd Known)。
(人生における発見を重視するなら、「就職のために自己分析をしましょう」 というのは話が逆なのだ。やりたいことをやってゆくうちに、自分が何者かということは 自ずと明らかになってゆくものだし、それでも自分という地層は厚く積み重なっており やればやるだけ新たな自分を発見できる。自分が何者かを問われるようなことを やってこなかったのに、頭で考えて自己分析が出来るというのは滑稽だし、 その程度のことで人生を決めてしまうのももったいない。 自分が何者かを知りたければ、自分が何者かを考えざるを得なくなるような ことをやることだ。今までそれをやってこなかったのなら、自己分析なんての に時間を無駄にせず、今すぐ始めることだ。)
そして無自覚にゲームに乗ることの危険は、そこでの勝負が全てのように思ってしまう ことだ。同エントリーより:
私は「就職活動を成功させられない人が、人生成功できる訳がない」と思っています。 一度目標を設定したら、(まして就職活動くらい)成し遂げるのが当然なのです。
「そういう人生」を選択した人にとっては。だが別の人生もある。
私は年にほんの数回だが、役者としてオーディションに臨んでいる。 オーディションはいわば就職活動の凝縮版だ。そこから色々学ぶことができる。 重要な教訓のひとつは、広い意味での就職活動というのは 入学試験のように一度越えれば別の世界に行けるという関門ではなく、 むしろ仕事を続ける限り継続する日常の一部であるということだ。
新卒就職活動のようなルーチン的な就職活動というのはその一例にすぎず、 必ず通らなければならないものでもない。そもそも世の中というのはそんなに 厳密にはできていない。就職なんてもともと、手が足りてないところがあって、 その手を提供できる人がいて、じゃあよろしくねっていうようなものであって、 それを人生の試練に仕立てあげる必要は無いんである。
努力が不要というわけではない。 チャンスは気まぐれにやってきて、それを左右することはできない。 掴む準備ができている人だけがそれを掴むことができる。 従って、日頃から基本的な準備を怠らず、かつ毎回の挑戦に万全を期して臨むこと、 それを努力と呼ぶなら努力は必要だろう。 (実際には、準備ができていない人はチャンスを認識することができない、ということの方が ありそうだが。) しかし「新卒就職活動」にむけてよっこらしょと腰を上げて あたかもそれが人生の勝敗を決するイベントであるかのように悲壮な決意を持って臨むことは、 あまり良い戦略ではない。
広い意味ではあらゆる日常の決断は人生を左右する。ただ、ひとつの挑戦にあまりに とらわれてしまうと、力が入りすぎてかえってうまくいかないし、 失敗した時のダメージも大きい。 これもオーディション、そして演技一般から学んだことだが、二重の態度が有効なようだ。 つまり、一面では成功するためにその時持てる全てのリソースをつぎ込むのだが、 同時にこれもまた繰り返す日常の一部にすぎないというリラックスした姿勢で臨むのだ。 失敗もまた、長い人生の一部である。一つの分岐点で成功するか失敗するかは 確かに人生を左右するが、失敗の先にも人生は続いているし、失敗からしか 学べないこともある。右と左のどちらが良かったかなんて結局わからないものだ。
学生は就職して社会人になるのではない。誰かの役に立つことをできるようになれば、 既にその人は社会の一員だ。就職は「誰かの役に立つことをする」ひとつの 効率の良い手段にすぎない。ただ、その状況に特有のルールと普遍的なルールの 区別を自覚していないと、流されるままに自分の行き先を見失うおそれがあるだろう。 ゲームに乗っていることを自覚せずに勝つとか負けるとか言っているのは、 流されている証拠なので注意が必要だ。
Tag: Career