2008/05/17
理性と感情
「データとか論理とか理性とかを感情よりも重視することを「知性」というなら、怒りや疑問をとりあえず表現することのほうが大事だと考える私は反知性主義者で別にいい」
内容よりこのタイトルの文章について反応。
感情はエンジン、理性はハンドル、どっちが欠けても困るよなあ、どっちも 大事だよなあ、とまず思う。
ただ、感情には気をつけた方がいい。強い感情はエンジンをぶんまわして 大きな行動力をもたらす、ということを私たちは意識よりも深いところで 良く知っている。そのため、 明確に意識されないような隠れた動機が感情を利用して自分に何かをさせようとすることがある(*)。 これは表層の意識に登るような理性の働きよりも下のレイヤで起きる ことで、意識から見るとまるで「感情が自発的に湧き起こってきた」かのように 感じられる。 人の心は実に巧妙で、自分に嘘をつくことに長けている。 例えば自分が表立っては認めたくない何かをやりたい時に、怒りや不快感を生じさせることで、 自分を衝き動かすといった具合だ。 表層の意識は、怒りに衝き動かされてやったことだと行動を 正当化できる(本気でそう思い込める)のでまことに都合がよろしい。
怒ってはだめと言ってるのではない。というか怒りは素晴らしいエネルギー源なので 使わない手はない。ただ、なぜ怒っているのかということについて目を瞑らないように するには客観的になる必要があり、それには理性や論理が役に立つ。 感情の奔流に飲み込まれ、全力で疾走しながらも、目を逸らさずにその理由を見つけようと する態度を知性と言うんじゃない?
目指すべきは、理性を重視することでも、感情を重視することでもない。 一方で爆発する感情でうなるエンジンの振動を全身で感じながら、 もう一方で理性の回路で感覚を冷静に処理してゆくことを同時に行うって ところではなかろうか。
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(*) このことは役者なら誰でも知っている。役者の仕事の一部は、 自分の心にあるこのメカニズムをハックすることだからだ。 近代の演劇術が発見したのは、 「意識によって直接特定の感情を呼び起こすことは出来ない。 しかし、目的の感情が起きる条件を揃えてさえやれば、 その感情は自然に呼び起こされる。」ということだった。 もちろんその条件は人それぞれ。その人が生きてきた人生がまるごと 関係している。 自分はどういう時に怒るのか、笑うのか、悲しくなるのか、嬉しくなるのか、 せつなくなるのか、良い役者は自分の心のカタチを良く知っているのだろうと 思う。