Island Life

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2009/01/09

役者の記憶力

昨日、満席で初日があけた。シーンが終わる度に拍手が出るなど えらくsupportiveな観客に感謝。

堀江氏のブログにて、英語の単語の丸暗記をする話が出てくる。 六本木で働いていた元社長のアメブロより:

1日24時間のうち10時間を睡眠・食事・風呂などに当てて、残りは単語ずっと暗記です。14時間も使えます。14時間で2ページ。単語数は派生語入れても50行かないくらいです。どうです?それくらいなら出来そうでしょ?

私はよっぽど舞台俳優さんの台詞暗記能力のほうが凄いと思いますよ。あんまり間違えられないし。

で、これについてこんなコメントがついてた。

舞台俳優の台詞は一言一句台本通りにしゃべってるわけじゃなく 台本ど忘れしたらアドリブで切り抜けるから英単語暗記とは違うけどな

日本の小劇場での経験では、公演ために書き下ろされた脚本でやることがほとんどだし、 脚本家が演出家を兼ねていたり、そうでなくても稽古に密接に関わって逐次修正してゆくことも多い。 その場合、脚本はどちらかというとたたき台というか素材みたいな感じで、 一言一句にこだわるよりは稽古の中で自由に発展させていって良いという認識が あったように思う。

米国の地方劇場で芝居をやってみて思ったのは、 日本の小劇場のそれは比伝統的なケースであって、 「既に完成している脚本」を使う場合は、 一言一句台本通りというのが大原則なんだなあ、ということだ。

別に脚本を神聖視しているわけじゃなくて、 演出家の判断で細部を変えることもよくあるんだけれど、 大前提として「一言一句細部まで全て、脚本家は意識的にそういう選択をして脚本を書いた」 というのが当然のこととして受け止められている。 あるいは、そこまで練られた脚本でないとそもそも上演されることがない、 と言ってもいい。 (新作であっても、脚本が完成してから上演されるまで数年かかるのが普通。 その前にreadingなどで披露されることもあるけど。基本的には何年経っても 色褪せない脚本であることが求められる。) 従って役者にも、脚本家の記したものを「前提」として、そこから可能な限り多くの意味を 読み取ろうとする姿勢が求められる。

例えばある一言の台詞について、「これ、最後が'?'なんだけれど、'!'にしていい?」 みたいな細かいことまで議論に上がることがあるし、 その場に脚本家が居ればこの程度のことでも演出家は脚本家に「変えていい?」って訊く。 あと、稽古中は演出助手が台詞をチェックしていて、脚本と違ってたところは後で教えてくれる。

で、まあ一言一句暗記するのが役者の仕事なんだけれど、 日本でやってた頃は全然苦労しなかったんだよね。 意識して覚えなくちゃならなかったのは長台詞くらいのもので、 普通の会話は何回かシーンを流したら頭に入ってた。

米国で芝居を再開した時に、台詞を覚えるのに苦労して、 これはもしかすると年齢のせいじゃないか、と思った。20代前半と30代後半じゃ 記憶力に差が出てもおかしくないかなと。

ところが数年芝居を続けていると、いつのまにかまた台詞が頭に 自然に入るようになって来た。明らかにここには年齢ではなく、 継続することで身につく何らかのスキルが介在している。

脚本を「前提」にするということは、その言葉がそこで発せられる必然性について とことん考えるということで、それを考え抜いたら台詞の言葉は全て 「あるべくしてそこにある」「この流れでここにこの言葉以外がくることはあり得ない」 ってことになる。「丸暗記」しているように見えるのは氷山の水面上に出ている 部分にすぎず、実は水面下にそれを支える巨大な土台があるわけだ。 その土台の方が芝居の実体であって、その土台から水面上の 台詞を本番のたびに再構成するんだけど、それが必然的に脚本上のせりふと 「一致してしまう」ってことなんじゃないかなと思う。

(『のだめカンタービレ』で、のだめがオクレール先生に違う音を指摘されて 「ちゃんと考えてないからだよ」と言われるところがあるが、 ここでの「考える」っていうのもそういう意味かなあと思う。)

Tag: 芝居