2009/05/19
表現
私も40の大台に乗ったからなあ。
未来のいつか/hyoshiokの日記 - 40代、50代の人たちはなぜ表現をしないのか
日本という地域では、インターネットを能動的に利用する若い世代(おそらく40前後がその上限)、あるいはヒマ人以外には、表現をする人というのはほとんど現れていない。少なくともわたしと同世代(50歳前後)にはそのような表現をする人はほとんどいない。
このエントリの読み方として、
- 40代、50代のひとたちで「表現」する人がほとんどいない
- 40代、50代のひとたちは表現しているんだけれど「ネット上で」表現活動を行う人がほとんどいない
というのがあって、吉岡さんの問題意識は表面的には一応後者なのだろうけれど、 なんとなく前提となる意識として「自分の目に届かない表現」を捨象している 印象があって、そのため前者のように受け取って反応している人も多い感じだ。
私の周囲を見回すと、少なくとも前者の命題はほとんど偽であって、 なんらかの表現を行っている40代、50代の友人知人は極めて多い。 ただしここでの「表現」とは広い意味で、先方のコメントにも書いたけれど、 人によっては仕事であったり毎日の献立であったり、あるいは日課の庭の手入れ がそうであったりするかもしれない、というふうにとらえている。
もちろん演奏をしたり画を描いたり演技をしたり映画を撮ったり、という わかりやすい「表現」をしている人もたくさんいる。 けれどもつまるところ、三木清の言うように生活が芸術になることが肝要なのであり、 それはつまり外的要因で自分の行動を決められるのではなく、自分の内的要因で 自分の行動を選んで行くということであり、自分の内的要因から行動を選ぶということは すなわち表現に他ならないということだ。 要するに充実感のある毎日を送っている人は生活そのものが表現なんである。
ブログとやらは情報流通の観点からは画期的な媒体であるけれど、 表現という観点からは単なる一媒体にすぎず、それも表現の形態を革新するような 大げさなものではない。もちろん表現者と媒体のマッチングが重要 なのであって、たまたまブログという形態が自分の表現のカタチに合った人にとっては ブログの登場は画期的であったろう。だからといって誰もがブログによる表現が 合うとは限らないし、ブログで発信していないから表現していないのだ、みたいに言われると 表現媒体としてのブログをそこまで大層に持ち上げなくても良いのでは、と感じる。
いやブログに書いてネットに載せれば広い範囲からフィードバックがあって、 という議論はあるかもしれないが、それは情報流通の観点からの話である。 吉岡さんの不満も、要するにブログみたいな媒体に書いてもらわないと 観客である「俺」が鑑賞できないじゃないか、という不満であろう。 それはわかる。私もいろいろな物語が読みたい。だからいろいろな人が ブログにその人の物語を綴ってくれたら私も嬉しい。嬉しいのだけれども、 それを主として「求めてしまうこと」は観客のエゴ、もしくは本末転倒だ。
例えて言えば、映画DVDのボーナストラックに入っているメーキングや インタビュー、私も大好きなのだけれども、あれが面白いのはあくまで 完成された作品としての本編があって、その補助として入っているからであって、 本編無しのメーキングやインタビューがあっても意味がないでしょう、ということだ。 メインディッシュはあくまで各個人の生活としての表現であって、 ブログに著された「表現」というのは副産物でしかない。
副産物だとしても、やっぱり多くの物語を読みたい。それはそうだ。 ところでドキュメンタリーやらインタビューやらというのは何も本人が 製作する必要はなくて、というか普通は対象となる人以外の人が製作するものだ。 ネット上の発信も、本人が行う必要はないのではないか。表現欲はあっても 表現する中身がない中高生くらいの時に親や身近な働く人たちの仕事を 丹念に追ってみるとか、祖父母の人生を聞き取ってみるとか、 そういう内容がどんどんネットに上がって来たら、そっちの方が面白いんじゃないかと思う。
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