2009/06/05
才能と金
THE BRADY BLOG: 炊事場のスーザン・ボイル - 素晴らしい才能を持ちながら、他に問題を抱えているため その才能を満開に発揮して一線に出ることができず、埋もれたまま社会のほんのひと隅を 支えている人はいくらでもいる。と言うような話。 素晴らしくよく書かれているので私の下手な要約よりも原文一読をおすすめ。
で、このエントリにはもう全面的に共感するんだけれど、ここの部分にちょっとひっかかった:
力のある人を世の中は放っておかない。
というのは、わたしの元上司の口癖だったが、ここでは物凄い能力のある人々が埃にまみれて世間の片隅で忘れ去られている。
とはいえ、“力”というものの中には、きっと“実際の作業をする能力”というのはあまり含まれておらず、自己プロモやネットワーキングを行う手腕といった“作業換金力”が80%から90%なのだろう。
能力がありながら恵まれない生活を送った人の話というのは事欠かないし、 能力のある人よりもその周囲の人の方が儲けていたりすることもままある。 そういう話を見聞きすると、どうにも残念な気分になるし、特に後者の場合は もともとの能力のある人が利用され搾取されているような感じもして落ち着かない。
けれどもよく考えると、ある人がお金を手にする、儲ける、ということは、 誰かが支払っているわけだ。で、自分含め人々が金を払うのはどういう時か、 ということを考えると、「才能」そのものに金を払うということはあまり 無いのではないか。生活必需品を除けば、支出の大部分を占めるのは「利便性」 に対する支払いだと思う。もちろん世の中には自分が不便な思いをしても これと見込んだ才能に投資を惜しまない人はいるけれど、それはやっぱり 珍しい存在だ。そういう人がありふれていたら世の中の芸術家の卵は みんな優雅に暮らしていることだろう。
以前、プロとアマの違いはアウトプットの山の高さではなく、不調な時でも 一定の質が保証されていることだと書いたことがある。結局、人がプロに金を 払うのは(=プロがその技術で喰って行けるのは)、
- 状況がどうであれ確実にある程度の質が保証されること (reliability)
- 客の都合に合わせて引き受けてもらえること (availability)
といった理由が大きいのであって、これらは要するに利便性に金を払っているわけだ。
もちろん需要と供給の関係はあって、才能が極めて得がたいものであれば、 利便性を犠牲にしても欲しいという客がついて取引は成り立つ。けれども そこまで珍しい才能でないとすれば、お客は才能そのものよりも、 その才能が提供される利便性の方に金を払うのだ。
「能力」よりも「自己プロモやネットワーキングの手腕」の方が金になる と言ってしまうとなんとなくアンフェアな感じもするんだけれど、 金を払う側はそもそも能力に払っているわけではないとすれば、 これはもう仕方ないことであって、 何か悪の力が働いてフェアネスが歪められているわけではないのだ。
それでも、素晴らしいものを創り出す才能に何とか報いたいという想いがあるのなら、 それはつまり愛である。そして充分な愛を持っている人は行動を起こすはずだ。 具体的には、才能とそれを求めている人とをうまくつなげる役割を買って出ることだろう。
その役割に、ネットはかなり使える道具になるんじゃないか、と今でも思っている。