2009/10/05
登場人物の気持ちを述べよ
国語ネタを出したついでに。「この(台詞|行動)に込められた登場人物の気持ちを述べよ」 みたいな問題は「国語のわけのわからなさ/無意味さ」を示す例としてよく槍玉に上がるけれど、 この問い自体は無意味でもわけわからないものでもない。その証拠に、 今この瞬間にも、この問いを仕事の一貫として真剣に考えている人が たくさんいる。これは役者が脚本を読む時に必ず向き合う問いだからね。 役者に限らず、フィクションを咀嚼して自分の栄養として吸収したいなら、避けて通れない問いだ。
教科としての国語がうまくいってないとすれば、それはこの問いが悪いんじゃなくて、 大事な前提をちゃんと言ってないからだと思う。それは:
- この問いには唯一の正解はない。ただし、明らかな不正解はある。
ってこと。唯一の正解が無いからといって、何でも答えればいいとか考える意味がない ということにはならない。どういうのが不正解かっていうのは、理屈で説明できることも あるし、説明しにくいこともある。でも映画や芝居をみて登場人物の行動が 嘘くさかったり、登場人物に関心を持てなかったりしたら、それは役者が正解を当ててないことの かなり良いインディケータだ。観客は、たとえ役者がたどりついた「解」そのものが 何かをピンポイントで理解しなくても、その「解」が正しいか間違っているかについては 恐ろしいほど敏感に反応する。
学校の試験という場においては、明確な採点基準が必要とされるために、 この問いの意味が歪められてしまっているのだろう。よく「出題者の意図」がどうこう 言われるが、あれは採点のために「無数にありえる正解のうち、 特定のもの以外を排除できるように仕込んである不自然な仕掛け」を見抜くって話であって、 問いの本質とは離れてしまっているのだ。
問いの本質とは。これもまた、国語の授業ではっきり教えてくれれば良いのに あんまり教えてくれない事実である。
- この問題の意味は「どこかにあるはずの正解を探し当てる」のではなくて、「文章を素材にして回答者自身が正解を創造する」というところにある。
このことを知らずに、どこかに正解があると思ってる生徒にとって、 国語がわけわからなくなるのも無理はない。
テキストは、木の塊の表面に記されたスケッチだ。この問いに答えることは、 そのスケッチの線に忠実に沿いながら、立体像を掘り出すという作業になる。 元のスケッチの制約を満たす立体像は無数にありえるだろう。そのどれもが 正解なのだ。もっとも、「素直」に掘ってみたら大抵の人がたどり着くであろう 形というのはあって、それが回答として挙げられるにすぎない。 (高校の現代国語の試験で、私は時々「ひねくれた、しかし筋の通る解」を ひねり出して答えていた。教師もそれを面白がって満点をくれた。 国語が面白くなったのはそれからだ。)
あ、あともう一つ、国語で陽に教えてくれないけれど大事なこと。
- 作者がどう思って書いていたかは実はあんまり関係ない
今日もラジオ番組向けに数人の役者で短篇小説を読む公開録音を やってきたんだけど、その小説の作者本人が観客席にいて、 「こんなにおもしろい話だとは思わなかった」って感想をもらしてた。 役者がたどり着いた解釈が実は作者も想像してなかったことだったってのは、 かなりよくあることだ。でもそれで良いのだ。"whatever works" と良く言うのだけれど、 不正解でない限りどんな解釈でも許されるし、むしろ作者も自分の 想像を越えた解釈をされることを望んでいるだろう。そうなることが、 作品が作者の手を離れて自立した証なのだから。
(番組は12/22(火)と12/29(火)の2回に分けて、18:30から KIPO (89.3FM)でオンエア。ストリーミングもあるみたい。 詳しくはAloha Shortsのページに。)