2010/01/09
帰属意識に自覚的であること
15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ - Railsで行こう!というブログエントリがブックマークを集めてて、 このエントリ自体については私は対象読者ではないし特に言うことはないのだけれど、 この記事についたはてブコメントの一つが気になった。
人生というのは仕事がすべてではない。海外の外国企業で働くということは、 自分の周りに、自分と同じような経験をした人が殆ど居ないことになる。 これは凄い寂しいことだと、米国に住んでる友達が言っている
これって「日本に住んでいれば、自分の周りに、自分と同じ経験をした人がたくさんいる」と 無条件に仮定してるっぽく読める。あるいはこれを書いた人はそう思ってないのかもしれないけれど、 海外に行くという話をする時によく出会う反応なので、そうだとして考えてみたい。
もちろん、単なるファクトとして経験を列挙すれば、 そりゃ日本で生まれ育ったもの同士の方が重複する経験が多いだろうけれど、 寂しいかどうか、仕事以外の人生が充実するかどうか、 という話をするなら、どうでもいい経験をカウントする意味はない。 良いものであれ悪いものであれ、自分にとって意味をもつ経験が共有できるかどうか、 ってことがポイントだと思う。 そこには「何を重要とするか」という価値判断が入ってくる。
で、そういう点を考慮すると、「日本にいれば『自分が大事に思っている経験』と 同じような経験を、同じように大事に思っている人たちがたくさんいる」とは限らない。 むしろ、ランダムに集めた日本人の集団の中で、そういうふうな共有経験を持てる 人が見つかる可能性はたいして高くないのではなかろうか。 少なくとも私にとっては、子供の頃にいろいろなものを作ったり壊したりした経験を 共有できる人の密度は、日本にいた頃よりも米国の職場の方が高かったし、 芝居に魅せられた経験を共有できる友人は日本にも米国にも同じくらいいる。 上のブコメの「友人」が寂しい直接の理由は、日本にいないからではなく、 国籍関係なく価値判断のウェイトが共有できる集団に属していない、 そういうことではなかろうか。
何を自分のアイデンティティの基礎にするかは人それぞれで、 たまたま日本にいた方が「仲間」がみつけやすいという人も大勢いるだろう。 それはそれで構わない。けれども、自分が帰属意識を感じているものは 本当に「日本」なのか、ということを問うてみるのは意味があると思う。 一人の人間が経験できるのは「日本」の中でもほんの一断面にすぎない。 自分から見えてる日本の中には、過去から連綿と続いてきて誰がみても認識できる 「日本的なるもの」もあれば、歴上の一時期、一地方にのみ存在したローカルな事象も あるだろう。それをぜんぶ「日本」と一括りにして、それ以外を「海外」と 分けてしまうことは、かなり危ういことなのではないかと思う。
なお、海外に住んでみる、ということは自分の感じる帰属意識を客観化するのに 良い方法のひとつだけれど、唯一の方法ではない。日本にいながらでも、 認識のスイッチを変えるだけでいい。日本という国家機構と 日本社会は別物だし、また日本社会そのものも一枚板ではない。 日本社会はいろいろな結びつきをもとにした共同体を内包し、その共同体のいくつかは 日本という国家機構や国境を越えて広がっている。そして人はそのうちのいくつかの 共同体に属している、という意識を持っている。自分が属していると思っている 部分集合はいったいどういう結びつきに基づいているのかを意識していれば、 「海外に行く=日本を捨てる」のような短絡的思考に陥ることはないだろう。
Tag: 生活
えっと (2010/01/10 17:52:10):
えっと (2010/01/10 18:05:17):
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shiro (2010/01/10 19:53:06):
えっと (2010/01/11 00:39:53):
shiro (2010/01/11 04:39:10):