2010/03/28
和訳抜きで英語を教えられるか
このへんで盛り上がっているのに参入。
上のリンク先で、和訳中心の教育の弊害ということが言われている。
和訳中心の教育は、英語を速く読み、英語で考えることの妨げにしかならない。 初歩の英語だけは和訳でも良いのでは、という方もいるが、 一度その癖がついてしまうと、なかなか戻すのは大変なのだ。
私自身、大学に入って大量の英文(といってもほとんど小説だけど)を 読むようになってから、「意識して和訳のスイッチを切る」訓練をした 覚えがあるので、この意見には原則として賛同できる。
学生バイトで2年ばかり中高生の家庭教師や塾講師をしていた時に、 「日本語を経由せずに英語を理解する」ということを教えようと試みたことはある。 具体的には、英文を読んだ時に訳語を探すのではなくイメージと結びつける、 という方法だ。具体名詞ならそのものを思い浮かべ、動詞が来たら動作を思い浮かべる。 修飾されたらイメージを詳細化してゆく。
結局思うような効果は上げられなかったのだけれど、まあ私自身、教えることについては 素人だったので、ちゃんとスキルのある教師が最初から英文直解で教えれば話は全然違うと思う。 それでも、当時うまくいかなかった構造的な原因というのをいくつか思いつく。
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まず、イメージによる理解の前提として、語彙力、それも日本語を介さない、 英単語/句とその意味する概念との直接の結びつきをある程度持っておく必要がある。 でないとイメージを想起しようがない。 英語ネイティブの子供の語彙数については、ばらつきがあるけれど、 キンダーに入る時点で5000語 とか2年生終了時で6000語とかいう範囲らしい(後者はroot wordの数で、派生語を数えていないので、前者は派生語を 数えているのかも)。
現在の日本の指導要綱では中学校で900語、高校卒業までで合計1300-2200語 (選択範囲による)、 次期の指導要綱では中学校で1200語、高校卒業までの合計で1600-3000語だそうだ (pdf)。 もちろんカバーする語彙の範囲は違うだろうから単純な比較はできないが、 高校を出ても、ネイティブの子供が英語で絵本を読み始める段階の語彙数に及ばないわけだ。
学習指導要綱の語彙数だって現場での経験に基づいて決めてるわけだろうから、 根本的に時間を増やすか方法を変えない限り、語数を倍とかにするのは難しいだろう。 しかも、知らない単語が出てきたら学ばなければならないわけだが、ここで訳語を与えて しまったら元の木阿弥である。絵や動作を駆使してイメージを伝えるとしても、 従来の英和辞書や対訳単語帳みたいなやり方に比べてかなり効率が悪いだろう。
つまり、語彙力増強だけでも、現状に比べて相当なリソースを割く必要がある。
また、少なくとも主語、動詞、修飾句/節の修飾関係がざっと見てわかる程度の 文法知識は必要だろう。 英文をぱっと見た時に、「XがYしている。そのXはxxのような姿で、Yする様子はyyだ。」 といったイメージを持つには、Xが主語でYが動詞、xxがXを修飾する形容詞句で yyは副詞句だ、とわかってないとならない。 単語だけから意味を拾って行くような読み方だと、途中まで なんとなくわかっているような気がしててもいずれ破綻する。
これも「ネイティブの子供は自然に習得する」かもしれないが、 同じように習得させようとしたら同程度の文章量を読ませる必要がある。 英文法というとどうも重箱の隅みたいな知識を問うイメージが世間にあるみたいなんだけど、 個人的には英語を読んで行く上で一番役に立ったのは、 高校の英文法の授業でひたすら英文構造の分析をやらされた経験だ。 時間が限られているなら、「多読すればわかるから英文法の時間は削れる」というのは 逆で、むしろ文法に特化したトラックを設けることでショートカットが可能になるだろう。
とにかくイメージによる直接の理解を教えようとしても、 語彙と文法ががたがただと手のつけようがない、というのが 当時得られた個人的知見だった。
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なぜ和訳が必要(だった)か、については、ひとつ仮説がある。 イメージによって理解するといっても、ある表現が出てきた最初の一文で その表現のイメージが確定する、ということはあまり無い。 むしろ、最初に文中で出会った時にはその指示範囲が 茫漠としていて、読み進めてゆくうちに急速に具体的なイメージが絞られる ということが多いように思われる。
ちょっと苦しい例だけれど、説明を試みてみる。 次に示すのはGoldingの "Lord of the flies" の最初のパラグラフだ。 単に今回たまたま目についたというだけで、これを当時教材に使ったということではない。 まあ、キングの"Hearts in Atlantis" では主人公が11歳の時にこの本を読むという 描写があるので、ネイティブならそのくらいで読む本だということだろう。
The boy with fair hair lowered himself down the last few feet of rock and began to pick his way toward the lagoon. Though he had taken off his school sweater and trailed it now from one hand, his grey shirt stuck to him and his hair was plastered to his forehead. All round him the long scar smashed into the jungle was a bath of heat.
この "long scar" が具体的に何を指しているか、イメージが浮かぶだろうか。 私はこの時点ではかなり抽象的なイメージだ。有機的なジャングルの中に 幾何的な鋭角の切り込みがあるようなイメージ。 でも少し読み進めれば、こういう表現に行き当たる。
The undergrowth at the side of the scar was shaken and a multitude of raindrops fell pattering.
In the middle of the scar he stood on his head and grinned at the reversed fat boy.
ここまで読むと、ジャングル中に切り込むような形で木がなぎ倒されている範囲のことを scarと言っていることがわかる。 そして、真ん中に子供が立って「絵」になるくらいの幅であること(つまり1mとかいうほど 狭くないし、50mとかいうほど広くもない)、 周囲をジャングルに囲まれてむっとした熱気と湿気がこもっていて、 scarとジャングルの境界には下草が密生している、といった情景が目に浮かんでくる。 さらに読み進めると、これが飛行機の不時着の跡であることがわかる。
この、scarの正体が具体的にわかるまで、ペーパーバックで2ページ。 読者は最初に掴んだ抽象的なイメージを、抽象的なまま頭に保持して読み進め、 後から補完してああそうだったのか、と気づくわけだ。 ところが、多分中くらいの高校の中くらいの成績の生徒にとって ペーパーバック2ページというのはとてつもない量なんである (もちろん、実際の教材はもっとずっと 易しい副読本をチョイスして使ってたのだけれど、 問題は同じこと。どんなに易しい教材でも、 まとまった英文を「分かる」ためには、未解決なイメージを短期記憶に溜め込んだ上で ある程度先読みしていかないとならない。)
あまり時間がかかると、この未解決なイメージは忘れられて、つながりがわからなくなる。 でも、「わからないところは飛ばしていいからとにかく読め」というのもうまくない。 あまり良くない例であることを承知で上のLord of the fliesのscarに戻れば、 冒頭の"long scar"を読み落としていると、その後で出てくるscarへの参照が 理解できず、結果的に「飛行機が不時着した」という最も肝心な初期設定が強く印象に 残らない。そうするとその先の物語もよく理解できないというハメになる。
(暫定的な)和訳をしながら読み進める、という手法は、 まだ読解速度が充分でない時に、頭の中に保持できない情報を外にダンプしておき、 それを足場として読み進める、という意味があるのではないだろうか。 冒頭のlong scarがよくわからなくても、 とりあえず暫定訳として「傷」などを当てておき、先に進むための足場を固めておく。 次のページでscarが出てきたら、あ、これはあの暫定訳の「傷」に対応するものだ、と気づくわけだ。 人間、頭の中に入りきらないものは言葉や絵にして外に出しておかないと先に進めないものだ。
もちろん、単なる足がかりであったはずの和訳に足を取られてしまって 先に進む障害になっている、というのが現状だと思うので、 これをもって和訳を正当化するつもりは無い。 だが、足場を作ってやるのが目的であるとすれば、修正してゆくことはできるかもしれない。
ほんの思いつきだが、例えば暫定メモを「XはYだ」「XはYした」というような 極めて単純な文の羅列に限定するとか。英語と日本語まじりで良いので、 わかったファクトの整理に使う。 要は、縛りを設けることで「訳」になることを避ける。
あるいはchain of thoughtの形で叙述してみる。つまり、読む端から 浮かんだ情景を切れ目無く言語化してみる。Lord of the fliesなら、 「男の子。髪は金髪。岩があって…数フィート…よっこらしょっと降りてみた。 ラグーンが見える。そっちに向かってる。セーターを脱いで手に持ってて…あ、 学校指定のセーターみたい。汗でシャツが張りついてる。髪もぺったり。 まわりには、んー、long scar? 傷? があって、ジャングルの中? すごく暑い。 long scarは何だろう。切り込み? とりあえず置いとく。次は…」ってな具合。 訳すのではなく、自分の理解したところを自分で言葉にする、というのがミソ。 これを、インタラクティブな集団でやる。ツッコミを入れながら。
全部英語でやればいいじゃんと思うかもしれないが、そうすると「英語による表現」 という別のハードルが入ってくる。英文表現も出来るから一石二鳥、という 考え方もあるかもしれないけれど、既に語彙とリーディング課題の大幅増強を やっているので、時間的に可能であるかどうかかなり怪しい。 表現については母国語が使えるわけだから、 使えるショートカットは使ったらいい。とにかくいっぺん「自分の身についた手法」 で表現してみることで、理解の足場を築くことができるんじゃないだろうか。 (その意味では絵を描く、でもいいんだけど、それはそれで人によっちゃハードルが高いだろうから)。
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なんか長くなっちゃったけど、まとめると、
- 語彙力がんばる
- 文法でショートカット
- 日本語を「訳」に使うのではなく、「表現による理解」の媒体として使う
としたら、和訳中心の英語から脱却できるかも?
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