Island Life

< 分けて考える | Kumu Kahua Theatre: The Hilo Massacre >

2010/06/11

目をつぶって見てみる

ここ数年、ショパンの練習曲(Op10と25)をちゃんと弾いてみようと 思い立ち細々とさらってきて、メトロノーム指定の6-7割くらいの 速度までは曲がりなりにも止まらずに弾けるようになったのだけれど、 そこから速度を上げようとするとどうしても力が入ってだめだ、 というところで壁にあたっていた。手首のリラックスが不十分なのだと 思ってひたすら脱力に気をつけてさらっていたのだけれどやっぱりだめで、 1日に最大1時間くらいの練習じゃこれが限界なのかなと半ば諦めかけていた。

それが、3-4ヶ月前にあることに気づいて、ひとつブレークスルーがあった。

譜めくりが面倒という理由から、できるだけさっさと暗譜して弾くようにしていて、 それはちょっとした隙間時間に練習するのにとても便利 (楽譜を用意する時間が 省ける) だったのだけれど、譜面を見ないせいで、難所にかかると手を見て 弾く癖がついていたのだ。試しに目をつぶって弾いてみたらよっぽど速度を 落としてもぼろぼろである。

手を見て弾いていると、単に鍵盤のポジションを目で確かめるというだけでなく、 暗譜自体を手の形の視覚的な記憶で行なうようになるようだ。 だから手を見ないと、どの音を鳴らしたらいいのかというイメージが 突如として曖昧になる。速度が上がらなかったのは指の運動の限界ではなく、 視覚のパターン認識によって運動を補正する回路が律速になっていたのだった。

また、視線を固定することは上体の自由な運動を制限することにつながり、 これも上体にに不要な力が入る原因になっていた。 しばらく目をつぶってスローモーションでさらうのを繰り返したら、 驚くほど弾くのが楽になった。

まだ速度は足りないけれど、ひとつ大きな障害が取れたことで なぜ弾けないかという原因のひとつひとつがよりはっきりと分かるようになってきた。

必ず間違える場所というのはそこだけ集中してさらえばいいのでわかりやすい。 一曲通して弾いて、5箇所間違えるんだけど、間違える箇所が毎回違う、 というのが、これまでどうやったら良いのかよくわからなかった。 目を閉じていると、ちょうど画像にブラーがかかるように、 ある箇所にさしかかるとイメージがぼやけるところがある。 そういう箇所は、惰性と手の記憶でだいたいは弾けるんだけれど、 確率的に間違えることが多くなる。多分、第三者に間違えたところを チェックしてもらっていると、特定の領域でチェックの密度が濃くなるのだろう。 量子力学のダブルスリットの実験で、ひとつひとつの光子の点を見てるだけじゃ わからないけど、たくさん感光させると干渉縞が出てくるみたいに。 自分一人でさらっている時は、だいたい直前に間違えたところくらいしか 覚えていないので、あまり当てにならない。 頭の中のイメージに気をつけていれば、どこが不完全なのか、かなりはっきりわかる。

これは他の分野でも同じではないか、と思う。

例えばプログラムを書いている時、書きながら全体の動きが頭の中で はっきり見えている時と、なんだかもやもやしているのをえいやっと コードに落とす時がある。後者のコードはほっとくといつかバグを出す。 ほんとは、コードに落として動かしてみながらイメージを明確にしていかないと ならならいんだけど、コードに落として安心しちゃってほっとくと後で 痛い目を見る。

何かを作りたいんだけれど、どうもうまく作れない、という場合、 それは才能だのスキルの不足だのではなく、 作りたいものが細部まできっちり見えていないからであるということが 結構ありそうな気がする。

Tags: ピアノ, ものつくり

Past comment(s)

koguro (2010/06/11 12:25:22):

同じかどうかは分かりませんが、LTとかの練習をしているときに、言葉が詰まったりいい間違えたりする箇所って、実は本当に話したかったこととは違っていた、ということがよくあります。きちんと話すことがまとまると、口が自動的に動いてくれるので、発表が楽になるんですよね。

shiro (2010/06/11 13:43:49):

おお、それがあのkoguroプレゼンの秘密でしたか! 芝居の場合は既に言うことは台本で決まっているわけですが、なんでそう言うのかがちゃんと「見えて」いないとうまくできないですね。

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