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2010/08/17

創作の目的

いつもスケッチブックを持ち歩いていた知り合いの絵描きは、下描きも無しに、人体の手先や足先、あるいは背景の一部から描き出して一枚の絵を完成させることができた。それは彼女にとってはただの手すさびだったかもしれないけれど、私はペンの先から次に何が産み出されるのだろうとわくわくしながら眺めていたものだった。

言葉と文章とプログラムと : たわごと

文章を構成する、てな話になったときに、「書きたいことがあって、それを章構成に分解して、必要ならさらに節、さらにこまかく〜」なことを言ったら、「書きたいことなんてないよ」と返されたことを思い出しまして。

書きたいことがないのに、文章とか書けるものなのか、と思ったわけですが。 同様に、プログラムなんかもそうだし、絵なんかもそうかと思うんですが。 「表現したいもの」や「目的」、「訴えたいもの」があって、初めて文章や絵、プログラム、音楽になるんじゃないのかな、と常々思っていたので、そういうもののない方とは、たぶん議論にならないな、と思ったな、という話で。

何かを作る、ということは、何か目的があるものではないか、と思うんですよね。 それが文章であれ、プログラムであれ、絵であれ、音楽であれ。

「良い作品には、明確な目的としっかりした構成がある」っていうのはたぶん真。 けれども、「良い作品を作るには、まず目的を明確にして、 トップダウンにブレークダウンして構成を考えなければならない。」というのは必ずしも真ではない。

知り合いの物書きは、他人から「お題」を募集して、それをネタに ショートショートを書く、というのをやっていた。一時期は一日一本の ペースで書いていただろうか。トータルで数百本になっていたはず。 大抵は、構成も結末も考えずに書き出すのだと言う。 自分で書きながら、予想外の展開となってこの先どうなるんだろうかとどきどきしたり、 驚くような結末を書いてから、ああこれはこういう話だったのかと納得したりするんだそうだ。

もちろん、かの絵描きや物書きがそんなふうに(描|書)けるのは、 それまで散々、きちんと構成を考えて(描|書)くという訓練を積んできて、 もうそれが身体に染み付いているからだろう。 その域に達してない初級者中級者に、 目的を明確にして、ブレークダウンして構成に沿って書くべきだ、というのは正しい。

起承転結だのパラグラフライティングだのといった方法論は、 人間同士のコミュニケーションの歴史の過程から結晶してきたエッセンスのようなもので、 それに乗っかっていれば通じやすいことが実証されているわけだ。 伝えたいことが明確で、他人とのコミュニケーションをゴールとするなら、 実証されたやり方に乗っかるに越したことはない。

けれども、創作行為にはもうひとつ、重要な役割がある。 自分とのコミュニケーションだ。 作品という具体的なアウトプット=自分のココロの一面の投影を外部に作ることによって、 「自分が本当は何を言いたかったのか」を知る、という役割である。 作ったあとで振り返ってはじめて目的がわかる、というパターンだ。

「何か目的があるから作品をつくるのだ」というのは間違ってはいないけれど、 出発点となる目的が作者に最初から見えているとは限らない。 そもそも、「これから作る作品のテーマは××です」と言葉にして全部済ませられるなら、 わざわざ苦労して作品の形にする必要はないではないか。 小説なり、音楽なり、絵画なり、そのメディアでしか表現できない何か、 コトバで簡潔に言い表しようの無い何かがあるからこそ、 そのメディアを選んで作品にするのだ。

(作り手が、スローガンのように明確なメッセージを自覚していてなお作る作品、 というのも無くはない。それは普通、「宣伝」と呼ばれる。)

出来上がった作品を第三者が分析する時には、テーマを確実に掴むために ワンセンテンスにまとめる、といったテクニックがあるのだけれど、 それは「言葉になり得なかったもの」を捕まえるための グリップにすぎない。 作者の頭の中に最初からテーマとなるセンテンスがあったわけではないのだ。

目的を強調しすぎる弊害はいくつかある。 「これを表現したいんだ」とあまりに強く思い込んでいると妙な力みが入り、 創作の過程で「降ってくる」新しいアイディアを掴み損なうかもしれない。 「これを表現したいんだ」という想い自体が、自分でも直視したくない別の動機を 隠すための思い込みかもしれない。

けれども一番の弊害は、そうやって作っていると、作品は常に想定内に収まり、 自分の予想を越えて化けるということが無い、ということだろう。 それはそれで、作り手にも受け手にも安心感があり、そういう安心感の需要というのもある。 でも、それだけをやっていて飽きないでいることは、とても難しい。

そもそも、目的を明確に決めずにつくりはじめることなんて出来るんだろうか、 と疑問に思うかもしれない。そんな人は、「目的」と「題材」の違いを認識すると 良いだろう。スティーヴン・キングは超常現象や怪奇現象を題材とする 小説ばかり書いているけれど、彼の作品のメインテーマはほとんど常に、 人は人の心の中の制御不可能な部分とどうやって折り合いをつけてゆくのか、 という問いを中心としている。たぶん、そういうテーマを書こう、 と構えて書いてるわけじゃなくて、インタビューやエッセイから 察する限りでは、単に怖い話が大好きなだけだと思う。でも怖い話を書くと、 そういうテーマが忍び込んできてしまう。クーンツのホラーとキングのホラーで 読後感が全く異なるのは、そのせいだ。

ポイントは、何かをつくりはじめるには「題材」があれば十分だ、ということだ。 先に「目的」がある程度はっきりしていて、それに沿った「題材」を選ぶことも できるだろうけれど、「目的」が良く分からなくても、どうも気になって 仕方がない「題材」に出会ってしまう時ってのがある。 それは、きっと自分でも意識していない「目的」がゴーストラインの向こうから 囁いているんだ。だからとりあえず、手探りでいいからその題材を料理してみよう。 そして、霧の隙間から本当の目的の姿が垣間見えるのを見逃さないように、 アンテナをぴんと立てておこう。

あ、ちなみにこのエントリの話は、小説や絵画だけじゃなく、 プログラミングにも結構当てはまる話だと思うよ。

Tags: ものつくり, 表現, Programming

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