Island Life

< 手段としてのプロ | 日常とドラマ >

2010/09/17

毎日が楽日

こないだChatonで「千秋楽の舞台には特別な思い入れがあるか」って話が出て ちょっと考えていたんだけど。

学生の頃は、芝居にせよその他のものつくり(「××祭」とか)にせよ、 それ自体が準備も含めて一種の非日常で、 楽日というのはハレの日々の終わりも意味していた。祭りに向かってぐわっと 盛り上がっていったテンションがその日に最高潮に達するわけで、 思い入れなら押し売りするほどあった。 その後一気にばらして、作ってきた舞台を何もない空間に戻し、 空虚さを埋めるかのように徹夜で打ち上げに突入。 その翌日には勢いで機材運搬用のバンにみんなですし詰めになって あての無いドライブに出たりとか。 結局、日常の感覚が戻ってくるのに1週間くらいかかっていたように思う。

そういったテンションの盛り上がりはわざと作っていたってところもあって、 祭りモードに入ると、人は祭りブースターが作動して普段使ってない部分が 活性化するって性質があるので、それを利用して能力に下駄をはかせていた、 という面がある。火事場の馬鹿力みたいなものかもしれない。 全てが終わって日常に戻った後に振り返って見ると、 あの舞台にいた自分は自分であって自分でないような、不思議な感覚があったものだ。

今はそういうことは無くなった。といっても、涸れたわけじゃない(と思いたい)。

例えばKumu Kahua Theatreで芝居をするなら本番は5週間続くわけで、 その間ずっと祭りモードでいたら生活のいろいろな面が崩壊するだろう。 昼間は普通に仕事しなくちゃならないし、家族のケアもある。 楽日の翌日にも日常生活は回ってゆくから、腑抜けていることもできない。 本番は日常の一部になっていないと困るのだ。 映画でも何週間かの間に不定期に撮影が入ることが多いし、 その期間中にワークショップやら別の稽古やらが入ることもあり、 これまたいちいち祭りモードになってはいられない。

でも、だからといってテンションが低いってわけじゃない。 単に、祭りブースターが無くても必要なテンションを得られるようになっただけだ。 (経験もあるけれど、アクティングのクラスに通ったことも大きい)。

もちろん、打ち込んでやってれば思い入れというのが当然出てくるし、 それは観客にも伝わるだろうけれど、その部分っていうのはトッピング、 あるいは隠し味みたいなもので。 思い入れ無しでまともなものが出せるのを前提に、こっそり入れるのが良い。 きっと、思い入れ特盛りだった学生自体の舞台はさぞかししつこかったろうなあと 今では思う。まあそれはそういうものとして楽しむっていうのもありだろうけど。

で、千秋楽の話。

部活とか劇団でやってた頃と違い、今参加する芝居はどれも、 その公演が終わったら同じ面子でやることはまず無いだろうということがわかっている。 だから、千秋楽は、一緒にやるのは最後、という日である。 うん、なかなか胸に来そうな設定だ。

でも、色々舞台を経験してきて、ほとんどのお客さんというのは、 どの日に来ても一度限り、であることも良くわかってしまった。 また、撮影を経験して、先に何日あろうと、その場で撮ったシーンは OKが出たその一回限りである、ってことも良くわかってしまった。

だから、楽日のテンションというのがあるのなら、 それを初日からずっとキープしないとね。 もうこの面子とやるのは最後、みたいな感慨は、個人的な感傷にとどめておくのがいい。

★ ★ ★

ところで自分はこれまでいくつか雑誌に記事を書いたり 共著で本を書いたりしてきたけど、物書きにはなれないだろうなと思ってる。 祭りモードに入らないとまとまった文章が書けないから。

趣味で書くならいつでも盛り上がった時に書けばいいんだけど、 仕事で書く時は締切りに合わせて祭りブースターに点火しないとならない。 それは自分の場合、かなりしんどいことだということがわかってきた。

芝居がどうにかなったように、書くことも体系的な訓練を積めば 自由にテンションを設定出来るようになるのかもしれない。 でもそこまでして書きたいという願望も無いのだな。

このへん、何かを仕事にするか趣味に留めるかって話に絡んで来るかもしれない。 祭りモードで何かするのが好き、っていうだけなら、 それを仕事にすると多分とても辛いことになると思う。

Tags: 芝居, ものつくり, Career

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