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2010/09/24

フロー状態と社会性

ちょっと議論の切り口が混乱してるような気がした。

私がソフトウェア技術者をやめた理由

私は、プログラムを書いていると、一種のフロー状態に入ってしまう。気がつくと4時間くらい経過している、なんていうことがよくある。フロー状態というと聞こえはいいが、私にとってはあまり愉快な体験ではない。プログラミングに没頭するほど、私は、社会性を失っていく自分に気がつく。「対コンピュータモード」「対人モード」と2つのモードがあり、これらは相互に排他的なのだ。

良く「コンピュータ」と「人間」は相反するものとして扱われるけれど、ここで問題になってるのは「コンピュータ」vs「人間」ではないように思う。

フロー状態はプログラミング特有のものではなく、 極度に集中を高める作業なら何であれ起こり得るわけで。 もちろん一人でやる作業の方がフロー状態に入りやすいとは言えるけれど、それが条件ではない。 例えば複数人でやる芝居の稽古でも、フロー状態に持ってゆくのが理想的だ (人数が増えると格段に難しくなるけど、二人なら比較的簡単。 マイズナーテクニックのrepetitionなんて二人でフロー状態に入るための練習みたいなものだ)。 音楽の演奏でも複数人のフロー状態はあるだろう。スポーツでもあるように思う。 (フロー状態の概念を提唱したCsíkszentmihályiもGroup flowということを言っている)。

つまり、フロー状態に入るモードと「対人モード」とは相反するわけではない。 ならば引用元のelm200氏の中では何が相反しているのだろう。 引用元で「フロー状態」に対置されているのは「社会性」なんだけど、 では社会性って何だろうと考えると良く分からなくなった。

フロー状態ってのは閉じた環境/集団で深く集中してゆくものなので、 その逆のベクトルというのは考えられる。開かれた集団や環境において、 意識をひとつのフレームに集中させるのではなく身軽にぽんぽんと乗り換えてゆくこと。 例えばパーティでの意識状態はそういうものかもしれない。

フロー状態「だけ」を指向すると、一人であれ固定した集団であれ、 ひとつの方向を突き詰めてゆくことはできるけれど、 新しい方向と出会う機会は減ってしまうのかもしれない。

もっとも、フロー状態のカウンターバランスを取るためにパーティーアニマルに なる必要はなくて、いつもの面子でも集中を切ってバカ話したっていいし、 逆に独りでも普段行かないようなところに出かけて意識を拡散させたっていいだろう。 それを社会性と呼べるのかどうかは、ちょっとわからないけれど、 フロー状態に入ることが多いような職種では、 意識して適宜こういった拡散状態を作り出す方がバランスが取れて良い、 ということは言えるんじゃないかと思う。

(そう言えば、Y Combinatorはプログラム期間中、週一でディナーに集まるけれど、 それも、籠もってコーディングばかりしている生活のバランスを取るためでもあるって Paulが言ってたな。 cf. 20060801-visiting-ycombinator)

★ ★ ★

フロー状態云々とは別に、プログラミングに没頭していて疲れることはある。 自分の場合、それは "too much celebral activity" なんで、 カウンターバランスとして身体を使うアクティビティが欲しくなる。 ジムに行くとか、ピアノ弾くとか、芝居の稽古とか。 でもこの軸は、フロー状態かどうか、とか、対人か対物か、という軸とは別の軸だよね。

Tag: Programming

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