2011/04/10
翻訳と理解
向井さんが『オーソン・スコット・カードの「翻訳」記事がやばい件』 で翻訳についてあれこれ考察していて面白かった。
翻訳に必要なのは、「原文を理解すること」と「それを日本語で表現すること」である、というのは全くその通りだと思う。このうち、後者の難しさというのはわりと理解しやすい。誰しも自分の言いたいことを思うように言い表せなくて苦労したり工夫したりした経験がある。
これに対し、前者はまず何が難しいのかをわかることが難しい、のだと思う。これは英語の問題ではない。どの言語で書かれているかによらず、他人が書いたテキストを自分がどのくらい理解できたかを知るには、まず「テキストを理解できた」という感覚を知る必要がある。無論、理解というのは一つの100%の正解があるものではなく、特に文芸的なテキストならば層がいくつも積み重なっていて理解できたと思ったその先にまたさらに理解すべき世界が開けている。けれども、「今、層のひとつを突破して、見えてる範囲では要素がクリアに組み合わさった」という感触はかなり確かなもので、それを一度知れば、新たなテキストに取り組んでいる時に、今自分は理解できているのかできていないのか、できていないとすればどのへんがまだわからないのか、がわかる。
自分はこの「理解できたという感触がはっきり得られるまでテキストを読む」というトレーニングを、学校で受けた覚えが無い。大学で人文系を専攻すれば多分そういうトレーニングがあるだろうし、良い教師に当たれば中学や高校でも習えるのかもしれないが。私自身は、主として芝居の脚本を読むことを通して「読むとはどういうことか」を知ってきたように思う。
向井さんは原文の理解について、生硬な直訳を作ることからアプローチする方法を紹介していて、それも手段の一つではあり得る。特に、事実関係の把握については、直訳でも理解していない部分が明確にあぶり出されるので有効だろう。ただ、その上の層や下の層は直訳では落ちてしまうことが多い。上の層とは例えばそれぞれの事実について話者がどのくらいウェイトを置いているのか、どちらの方向へと印象づけようとしているのか、といった部分であり、下の層とは例えば文の前後のリズムからここでこの単語を選択している、とか、ここはAからBへの流れを強調するために文を切らずに関係詞節でつなげている、とか、ここはあそこと呼応してる、とかそういう部分。今適当に思いついたことだけ言ってるけど、もちろん上の層や下の層はもっと大きな広がりを持っている。
意訳というのは原文にあるそういった多層の構造を汲んでできる限り訳文に反映させることで、単に直訳を離れて自由に訳すことではない。ある訳文がそういう訳文になった理由というのはかならず原文に無ければならない。(とは言え、自分が訳すときはかなり直感に頼っていて、すべて考え抜いた訳、というふうにはなってないんだけど。目指すべき理想として。)
読むトレーニングが難しいのは、「理解できたかどうか」を直接確かめる方法が無いからだろう。頭の中を直接覗くことはできないので、理解の程度を確かめるにはいろんな方向から突っついて反応を見る、というインタラクティブなやりとりにならざるを得ない。問いを固定してしまうと、その問いに特化したショートカットが作れてしまい、理解して言ってるのかショートカットしてるだけなのかわからない。国語のテストがつまらないのはそのせいだ。本当の面白さは、各人に対する個別の問いかけや議論でしか味わえない。
この点で、演劇はもっと日本で初等教育に採り入れられてもいいのにな、と思う。 読むだけでなく、自分の身体で表現し、周囲とインタラクトしなければならないので、 嫌でも理解を問われることになるから。今の日本ではそういう体制が無いから 教えられる人を集めるのが大変だろうけれど。
とおる。 (2011/04/12 06:26:27):
shiro (2011/04/12 12:47:49):