2011/06/09
悪者は効率じゃなくて
「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追い付かせてはならない。
スピーチの本題とは関係ないんだけど、 「効率」というのが「人間らしさ」みたいなものと対立して語られることがよくあって、 その度に気になっていた。
確かに、電車の輸送効率を上げると満員電車は息苦しいし、 仕事で効率をあげろと休憩時間を削られれば余裕は無くなるし、 効率効率言ってると人間が疎外されてゆくように思えるかもしれない。
でも、仕事をさくっと切り上げて明るいうちに家に帰って子供と遊ぼう、とか、 あるいは畑の作物がうまく流通できなくて無駄になってるのを何とかすれば 飢える人が減らせるとか、そういうのも効率を上げるってことなんだな。
人間が疎外されるのは、効率の追求そのもののせいじゃなくて、 効率の名のもとに人が手段にされているからじゃないかなあ。 人が目的になっているなら、効率は大いに追求すべきじゃないかなあ。
「効率」っていうのにいやな響きを感じたら、そこで効率から逃げるんじゃなくて、 「その効率は何のためか」を考える必要があるんじゃないか。 効率を避けようとしちゃうと、ほんとうの悪者、 人を手段にしようとしている何か、そこから目を逸らすことになりはしないか。
エンデの『モモ』では、人々が時間を節約しよう節約しようときりきりして どんどん余裕をなくしてゆき、そうやって切り詰めた時間が灰色の男たちに 盗まれちゃうわけだけど。じゃあ時間を節約するのは良くないね、 もっと余裕を持たなくちゃね、ってことではないわけだ。 豊かな時間を過ごすための余裕っていうのは、 無駄を節約する色々な工夫の上に成り立っている。 昔は、一日中働きづめでようやく喰ってゆけるだけの量しか生産できなかったんだから、 余裕なんて無かったわけだ。 『モモ』のポイントは「時間泥棒に時間を盗ませるな」ってとこで、 自分で贅沢に使うための時間をひねり出そうと色々工夫することは何も問題ない。 目的を忘れちゃだめだってことだ。
(追記 2011/06/11 07:54:55 UTC): スピーチ全文: http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
このスピーチを受けて「効率」の点に突っ込んでる感想は結構あるようだ。 このスピーチそのものについては、作家の使命と決意を述べるところが主題であって、 その限りにおいては良いかなと思った。 物語の具体例として「効率」を持ち出したのが筋が悪いんじゃないかってだけで。
筋の悪さという点では、「被爆国だから核を拒否すべきだった」という物語も 情に訴えすぎていて(論理を10段くらいすっ飛ばしてて)あんまり良くないと思うけど、 個人の信念としてそこから出発することは誰にも文句はつけられない。
でも、過ちを繰り返さないための信念として 「核の拒否」を芯にするのは弱いと思う。 大きな過ちを防ぐには、小さな過ちを繰り返してそこから学べる環境が必要だ。 「ほんのわずかな失敗も許されないプロジェクト」は、その点で、 最初からほぼ失敗が運命づけられている。 原発は「失敗した時のダウンサイドがでかすぎ、そのために(人を説得するには)無謬神話に頼らざるを得ない」という点で、極めて「筋の悪い」技術だ、 というのが、今のところ私の中では最も有力な脱原発の論理。 もちろん、そのダウンサイドがいかに大きいか、という点を説得するのに、 原爆体験は重要だ。けれど論理をすっ飛ばして核=核の連想で拒否してたんじゃ、 別の過ちを踏んでしまいそうな危うさがある。新しい技術はどんどん出てくるよ。 その時何を以って判断するの? 核エネルギーでなければいいの?
Tag: 生活
ごっしゅさいこう (2011/06/11 16:20:51):
shiro (2011/06/11 19:11:31):
カタルニャ落ちる (2011/06/12 02:22:09):