Island Life

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2011/10/22

喩え話

この話良く見るんだけど、一見もっともなようで、何が何に喩えられてるのか少し突っ込んで考えてみると、どう対応付けても余分な要素が出てきて、あまりうまい喩え話ではないと思うんだよな。

http://appbank.tumblr.com/post/11768696477

ある大学でこんな授業があったという。 「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。 その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。

[...]

ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。 それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。

毎回、見る度に「もっともらしい喩え話にわかったような気にさせられてはいけませんよ」っていう寓話だろうな、と思って読んでくんだけど、そういうオチになってないので気持ち悪い。もしかしてオリジナルにはそういうオチがあったのに伝わってく間に削られた、とかだったりして。

例えば壺の容積を「人生において持ってるリソース(時間とか)」で、入れるものの体積を「必要なリソース」と対応させれば、「大きな単位からリソースを割り当てろ、さもなくば大きなリソースを必要とすること(大きな仕事とか)が出来なくなるぞ」というアドバイスになって、これはこれでもっともだ。ただ、そういう対応をつけた場合、砂より岩の方が「大事である」という価値判断はこの例えの範囲外になる。大きなリソースを使う大きなことをしたい人はそうすれば良いが、小粒の宝石のように細々とした小さなことを積み重ねてゆき、気づいたらそれが見事なモザイク模様になっていた、なんて人生だってありだろう。

容積を、心のアテンションの総量と考えて、大事なことに優先して大きなアテンションを割きなさい、というアドバイスと取ることもできる。けれど、そう取った場合、「砂で埋めてしまったら大きな岩を入れる機会を失う」というのがおかしい。アテンションの割り当ては、一度決めたら二度と変えられないというものではないからだ。気づいた時点で心を空っぽにして入れ直せばいい。

「聞いた人それぞれが好きなように受け取りゃいいじゃんか」ってのはまあもっともで、雑談で「ちょっといい話」をするんだったら別に構わないんだけど、この話って「大学」で、「教授」が学生に向かってしてる、って設定でしょ。 大学生なら、批判的思考をすることが期待されるよね。この教授は、わざと隙のある喩え話をして、ツッコミを誘ってるんだよ。

★ ★ ★

(追記2011/10/23 01:57:28 UTC): 知り合いの演出家は、大学で演劇論かなにかを教えてるんだけど、 定番のネタを持っている。

初回の講義の時、教室に入るとおもむろに黒板に名前を書いて、すぐ講義を始める。 その講義の終わりに、「ところで、私の名前は何だっけ?」と質問する。 学生が当然のごとく最初に書かれた名前を答えたところで、 「私は、これが私の名前だとは一言も言わなかった。 私がある名前を書いた、というのがファクト。それを私の名前だと思ったのは君たちの解釈。 ファクトと解釈を区別することが「読む」ための第一歩だ。 ところで私の名前は××だ。よろしく。」

壺の中身が何を意味するか、というのは解釈で、解釈であるならばたとえ教授が言おうが 鵜呑みにせず議論の俎上に載せるべき、というのが大学で教えられることである。

Past comment(s)

さとお (2011/10/23 01:08:42):

「どんな話題についても、細かいところには、いくらでもツッコミどころがある」、という喩え話だったりして。 しかし、学生のまっとうな解釈について、「それは違う」と言った時点で、この「教授」はアレなのではないかなぁ。

shiro (2011/10/23 02:00:11):

まあ、「ちょっといい話」にケチをつけるのも狭量かもしれないけど、この壺の話はなんだか微妙に歪んでて落ち着かないんだよなー。

高村@ee91 (2011/10/23 15:08:44):

2年ちょっと前に反応したやつが、今はてブで再燃してますね・・・ http://takamura.asablo.jp/blog/2009/08/18/4523121

shiro (2011/10/23 19:13:35):

やっぱりそう思うよね>高村。前見た時も気になったんだけどとりあえずスルーしてたんだが、今回はスルーしきれなかった。

aka (2011/10/27 08:41:05):

この喩え話自体にではなくて、それに対する此処彼処でのコメントについて気になったのでちょっと書込み。教授が伝えようとしていたのは、この喩えでなければ表現できないような、すなわち、学生や読者がてんで知らない特性、説明し難く理解し難い特性が人生にはあり、それがこの岩〜水と壺が如し、ということでもありえるでしょう。であるとしたら、各自の世界観に照らし合わせて、それがうまくない喩えだと認識されることはこの智慧が稀なものならば一般的な反応ですよね。そこで気になるのは、喩え話に対して理解し難いから偽だ、変だ、騙しだ!というのは認知言語論的な意味の発展や意味の伝達の観点からはちょっと違和感があるということです。人の精神の健全性維持としては正常に思いますが。なお、このエピソード自体は、当たり前のことを言っているだけなのに冗長なので私は嫌いです。

shiro (2011/10/27 09:09:37):

ふむ。確かに、受け手の考えの及ばない思想を喩えたものが、下手な喩えだと受け取られることはあり得ますね (このへん、「ほげ言語のパラドックス」に似ているかも。)

私自身も何かを評する時に常にその可能性は念頭に置いておくことを心していますが、その上でどうしても言いたくなったら、まあ私の認識が間違ってても私が恥をさらすだけってことですし、「これは実はこういうことなんだよ」って教えてもらえるかもしれないし、つまり評というのは素の時点で固定したものではなくリアクションを貰ってそれにリアクトする体勢があれば何であれ有効なんじゃないかとは思います。「これには私の思いも及ばない深い意味があるに違いないから黙っておこう」ってなるとリアクションのスパイラルが形成されないし。

とは言え「最初の直感」にも有力な手がかりが潜んでいることもあり、この話の場合それは「妙な歪み」あるいは「一種の胡散臭さ」だったのですが、それが話し手によるものなのか、私自身の認知フレームによるものなのか、というのはこれもまた面白い議論のネタになりそうです。

aka (2011/10/27 11:04:33):

あ、それはおっしゃる通り。このページ、ご参考になれば。
http://www.successfulacademic.com/ezines/apr252005.htm
個人的には、この話を「米国人はこういう小話が好きらしい」という事例としてみてます。たぶん喩え自体だけじゃなく、こういう小話が好きなんじゃないかなぁと。

shiro (2011/10/27 12:28:14):

なんと。その英文の話なら何も噛みつくところは無いですよ。優先度つけてコミットしなさいっていう具体的なアドバイスになってますよね。

その英文のような挿話がオリジナルだとしたら、それが伝達の過程で具体的なコンテキストをそぎ落とされ、人世訓めいたものに変貌したってことですかねえ。

二つの挿話が決定的に違うのは、英文版では語り手が前提とする価値観が明示されているのに対し、和文版ではそれが隠されていること、かな。その隠されているところに私は胡散臭さを感じるのかもしれない。

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