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2011/11/25

教育について

ここで何回か内田樹さんのブログの記事に 批判的に言及したことがあったけれど、 単に「何か言いたくなった」時だけ言及してるからそうなってるだけで、 別に何から何まで批判的に見てるわけではない。 特に教育についてのエントリは深く頷くことが多い。 このエントリは全くその通りだと思った。

ところで内田さんはしばしば「市場原理主義者」に言及するするんだけれど、 内田さんの描写するところの彼らは、どうもあまり賢くない、B級映画の悪役のような 雰囲気を漂わせている。実際にそういう人たちがいるのか、それとも内田さんが誇張しているのか、 それは判断がつかないのだけれど。

例えば上のエントリでは批判対象として、「骨の髄まで市場原理と競争原理に毒された」 教育施策があげられていて、それは「国際競争に勝つため」の教育だという。

教育の目的は競争に勝つことだと書いてあります。競争に勝てる人材を育成することだ、と書いてあります。彼らは「激化する国際競争」にしか興味がないんです。だから、教育現場でもさらに子供同士の競争を激化させ、英語がしゃべれて、コンピュータが使えて、一日20時間働いても倒れないような体力があって、弱いもの能力のないものを叩き落とすことにやましさを感じないような人間を作り出したいと本気で思っている。

けれど、市場や競争のことを知っている人なら誰だって、一番強いのは 「競争に勝つ人」ではなく、「競争のルールを作る人」だってことを知っている。 真の市場原理主義者ならば、「ルールを作れる人間」を 育てることを志向するはずだ。つまり、既存のルールに疑問を持ち、 声を上げ、新たなルールを提案して周囲を説得して納得させる、 という過程こそを教えなければならない。 現在のルールを疑わずそれに向けて最適化することだけに長けても、 ルールを変え得る人には決して勝てないのだから、 前者を教育目標にするのは初めから負ける手である。

だから内田氏が言うように、「市場原理主義者」が本心から上のような教育方針を 信じているのかってことが疑問なんだよなあ。 むしろ、密かに一部のエリートだけルールを作れる教育を施し、 残りを従順なソルジャーにするつもりだと考える方が整合性があるような。 そりゃ陰謀論になっちゃうか。

でも、上の「市場原理主義者の教育方針」が「建前」にすぎないとしたら、 そこだけ正面から批判してても相手はあんまり痛くないんではないかな、という気もする。 まあ、本音がわからない段階では表向きは建前を批判しておくしかないわけで、 内田さんもそう思って仕方なくやってるのかもしれない。でもそれなら、 内田さんの「市場原理主義教育施策批判」そのものもまた、 建前ということになる。そこにちょっと弱さを感じる。

Tag: 教育

Past comment(s)

見ず知らずのTHのTK (2011/11/27 20:51:54):

『密かに一部のエリートだけルールを作れる教育を施し、残りを従順なソルジャーにするつもり』ですよ、マサに市場原理主義者は。むかし文化庁長官してたMS氏が「出来ん奴は出来ん儘で結構。…」と言い放った事実を忘れるべからず。教育施策を方向づける答申を発する組織の長が漏らしたホンネです。

shiro (2011/11/27 21:29:49):

それなら一応整合性があるんですが、では現実にはエリート教育ってどこで行われてるんでしょう? (実例が無いとほんとに陰謀論になっちゃうんで)。

T.Watanabe (2011/11/28 14:27:48):

内田氏は単に「市場原理主義者」を非難したいだけであって実際どうなのかはどうでも良いのはないでしょうか。内田氏の教育論でいくと、子供たちが大人になった時"競争のないユートピア"が存在しない限り非常に困った事になるのではないかと思うのですが、その時も「市場原理主義者」を非難していそうです。あるいは"競争のないユートピア"が実現していないのは「市場原理主義者」のせいだと言いたいのかもしれません。いずれにしても対立関係を無理に作っている感じはあるので、嘘っぽい/安っぽい悪役に見えるのでしょうね。相手にレッテルを貼って批判するのはテクニックとしては認めますが、「ちょっとレッテル大きくね?」というところでしょうか。

shiro (2011/11/28 19:06:56):

うむ。教育に短期のアウトプットを求めるな、教育の効能を子供と取引するな、といったところはとても重要な主張だと思うので、ことさらB級悪役を仕立てて攻撃すること無いのにな、って思うんですよね。もったいない。

「ルールを疑い、自分で作り出す」ことを教えるには覚悟が要ります。管理する側の権威が否定される怖れがあるので。ルールに従順な人間を作り出した方が、内政的には管理しやすい。ところが、「国際競争に勝つ」ことを目的とするなら、他国の作ったルールに乗って戦うことはカモがネギしょって出かけるようなものです。そこでリーダーシップを取れるような人間を育てると、その人間が「うちの国は競争から降りまっせ、あほらしい」と言い出す危険も引き受けないとならない。競争主義は突き詰めるとそういう緊張を孕んでいるんで、批判したいならそのへんを突くのがいいんじゃないかと思うんですが、どうなんですかね。

T.Watanabe (2011/11/30 00:35:58):

内田氏のB級悪役に気をとられてましたが、私には「競争に勝つ人」と「ルールを作る人」が、それぞれ別のスキルを持った人間のようには思いません。 「競争に勝つ人」を育てるのだから子供同士でどんどん競争させれば勝てるスキルが身に付くというのは全くのナンセンスとして、では「ルールを作る人」が予め作るプロセスを知っていたのかというと疑問があります。 「競争に勝つ人」も「ルールを作る人」も単に"合理的"な行動を選択しているだけなのではないでしょうか。競争に勝つには外部要因も絡むので必ず勝つ訳ではないにしろ勝率はかなり高くなるでしょうし、ルールを変えた方が"合理的"だから結果としてルールを作ろうとしているだけで、周囲の人たちを議論でねじ伏せたりしなくとも考えている事が"合理的"なら充分な説得力を持ちます。 もちろんそれ以外の能力も必要なのですが、合理的に考えるという事は頭にコピペして得られるスキルではないし単なるペーパーテストで量れるものでもなく、一見すると直感に反するようなものまであるので教えるのは難しいでしょうね。でも数学は"合理的"に考える良いトレーニングだと思いますし、深い or/and 幅広い知識がベースになっていないと単なる"最適な答え"程度になってしまうので、教育が「合理的に考える下地作り」として果たす役割は大きいと思います。ただ、競争を楽しめるようになるとか、競争に負けた時にゲームオーバーにするんじゃなくて、どうやってリカバリしていくかは学ぶ必要があるんじゃないでしょうか。

shiro (2011/11/30 08:10:20):

ちょっと冗長になるかと思って削ったんですが、括弧つきの「競争に勝つ人」とは「所与のルールを疑うことをせず競争に乗っかる人」という含みを持たせたつもりでした。内田さんの描写するような、競争の勝敗が人生を決すると思い込ませるような場では、競争から一歩引いて楽しんだりルールの妥当性を考察したりする余裕は産まれにくいだろう、ということです。まあ必ずしもそうなるとも限らないですが…

私が中高生の頃は厳しい校則とやらが問題になった時代で、報道されてたような、問答無用でルールを守らせるような教育では、合理的に思考してルールを疑うような能力は育ちにくいでしょう。一部の比較的自由な学校では自主的なルール作りが機能していましたが。今どうなっているのかはよくわかりません。

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