2011/12/11
利己/利他
『行動の源2』のコメントで「利他的行動についてはどうなるの?」という話題が出たのだけれど、 「好奇心」や「表現欲」にドライブされる行動が利己的であるとは限らない。 結果として利己的になるものも利他的になるものもあるだろうけれど、 いずれにせよそういうのは外野が評するものであって、 行動してる本人にとってはあまり関係ないんじゃないかと思う。
強烈な好奇心や表現欲のもとでは、そもそも自己というものが小さくなってゆくんじゃないか。「自分が」表現したい、というより、「これから作られる作品」が自分を使ってその作品を作らせる。God's instrumentという表現があるが、いわば自分がミューズのinstrumentになるというか。
Paul Grahamの『Taste for Makers』にこんな文がある。
模倣に対する態度はしばしば一巡する。初心者は知らず知らずのうちに模倣する。そのうち、彼は意識的に独自性を出そうとする。最後に、独自性よりも正しくあることがより重要だと気づく。
二番目の段階では「自分/他者」にとらわれているが、第三段階まで行くともう自分とか他人とかあまり関係なくなる。「守破離」の「離」も似たような話だと思う。
以前似たようなことを書いた(エゴと創造)が、自分がどうの、他人がどうの、ってことにとらわれるのはノイズになって、行動の足を引っ張ることになる。利己心や利他心はきっかけにはなり得るけど、それによって「あるべき世界/表現すべき対象」が定まってからは、それを実現したいという欲求がドライビングフォースになる。んじゃないかな?
利己的な動機でスタートしても出来たものが多くの人を豊かにした、っていうことはあるし、利他的な動機でスタートしたのにみんな不幸になってしまった、っていうこともある。「利己/利他」を最終目的として何かを始めたり、 他人の行動を評価する時に「利己/利他」の軸を持ち込むのは、ちょっと危うい。
関連エントリ:
Tag: ものつくり
Post a comment