2012/02/02
「マイコン」の思い出
マイコンが欲しくて欲しくてたまらなくなった僕は、父に交渉することにした。今まで小遣いやお年玉を貯めた全財産(といっても4万円くらいだったと思う)を出すので足りない分を出して欲しい、と。
私らの世代では似たような経験を持ってる人が多そうだ。
うちはしかし、親が折れなかった。親の「こういうものはすぐに技術が進歩して時代遅れになるから、あせって買うことはない」という意見に有効に反論できなかったのが敗因である。
まあ買ってもらえなかったおかげで、ジャンク品を集めて自分で組み立てることになり、それはそれで良い経験になったわけだけれど。
でも、子供を持った今、この経験を振り返ると、あることに気づく。当時、子供にマイコンをねだられた親の多くは、多分それがどういうもので何を意味するのか、よくわかってなかっただろうと思うのだ。マイコンがどういう製品で何が出来るのか、くらいはおぼろげに知っていたかもしれないけれど、30年後にコンピュータがどのように日常生活の中に組み込まれていて、当時の8bitマイコンから30年後の社会にどうつながってゆくのか、ということをイメージできていた親はほとんどいなかったんじゃないか。
ということは、今後、自分の子供が「これが欲しい」と強くねだってくるものについて、それを今与えることの意味がさっぱりわからない、ということが起き得るだろうってことだ。
まあ、そんなことは当然だとも言えるんだけど、わからないことについて裁定を下さないとならない、というのは、ちょっと覚悟の要ることではある。
とは言え、上のblog主のように買ってやった親も、うちのように買ってやらなかった親も、結果を見てみれば正しいことをしていたと言えなくはないので、どっちを選ぶかってことは実はあまり問題ではないのかもしれない。どうでも良いということではなく、どちらかを選ぶこと、自体が重要なのかもしれない。
Tag: 生活
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