Island Life

< 魔女譚ふたつ | ピアノレッスン63回目 >

2012/10/01

自慢ビリティ

らむ太の学校では、 家から何か持っていってみんなの前でそれについて話すというsharingの時間が設けられている。 プリスクール時代はやりたい人がやるってシステムだったのだが、小学校に上がって 週一回は必ず何かshareするということになった。

英語の会話が同年代の子に比べてどうしても苦手なので (実際に英語を使っている総時間が絶対的に少ないのだから仕方ない)、人前で喋ることにあまり積極的でなく、プリスクール時代は2回くらいしかshareしてない。1回は確かお気に入りのLegoで作ったワニを持っていったんだった。 しかし今度はちゃんと割り当ての曜日にshareせざるを得ない。

初回の日、本人なりに色々考えた末、それまで断続的に作っていた海賊船 (牛乳パックの船体に割り箸のマスト、紙の帆と毛糸のロープ) を完成させて持っていった。 これがずいぶんと好評で味をしめたらしく、「次のsharingは何を持っていこうかな」と心待ちにするようになった。その翌週は抜けた自分の乳歯と虫眼鏡を持っていって、みんなに観察させていた。

これはとても良い仕組みだと思う。 「自慢の上手なやり方」と「自慢の上手な受け取り方」を学べるからだ。

少なくとも私の小中学校時代では、 自慢というのはどちらかというとネガティブな行為って雰囲気があって、 実際、「能ある鷹は爪を隠す」ということわざを引いて諭された記憶がある。

けれども、自慢自体は悪くも良くもない。 場所と時と相手をわきまえれば、むしろ良いことだ。 例えばオープンソース開発者の原動力のひとつは 「こんなん作っちゃったぜへへ」っていう自慢への衝動だ。 悪いのは自慢ではなく、自慢を使って他人をコントロールしたいという意図の方である。 他人をどうこうしたいという意図の無い素直な自慢は、見ていて気持ちの良いものだ。

「悪い自慢」を避けるために自慢そのものを抑圧してしまうと、 上手な自慢のやり方を学ぶ機会を失って、 自慢したくても他人にどう思われるかを恐れて妙に屈折した表現しかできなくなったりするかもしれない。 そういう屈折もまた、他人の評価を操作したいという意図の現れであって、 それ自体が「いやらしい」ものになってしまい、ますます自慢ができなくなる。 それはとても不自由なことだ。

自慢は妬みを呼ぶから良くない、という主張もある。 でも、妬みもそれ自体は悪いものではない。 人が何かを作る原動力に嫉妬があることは珍しくない。 (「Gaucheではできないけどオレ言語では簡単にできるぜー」と自慢する人がいたら、 その機能が次のGaucheリリースに入る可能性は高い。) 妬みそのものは、自分の心の内面からのシグナルだ。 それとどう付き合うかで、良いものか悪いものかが決まる。

Tags: 生活, 表現

Past comment(s)

よしき (2012/10/02 03:18:24):

うちのあたりでも"Show & Tell"といってやっていますね。自慢の仕方という切り取り方は面白いですね。大まかに言っても「プレゼンテーション」というものに対する意欲が違いますね。知人(日本人)の10歳くらいの子供も、米国の子供たちが軽妙に受け答えをすると言って驚いていました。そのような子供たちの一人が南北戦争時代の(うーむ、誰だったかな)人物に関するリサーチをたっぷりしてポスターなぞを作り、発表のときは仮装までしてなりきって発表したものの、細かくて調べきれていないことがらに関する質問をされたそうです。でも、わからないからと言って恥ずかしがる風は全く見せず、"I don't know, because I'm already dead!"といって笑いをとって切り抜けた、ということに感銘していました。

shiro (2012/10/02 07:35:22):

私も"show and tell"と言うのかと思ってたけれどsharingって言ってますね。モンテッソーリだからなのか、ハワイだからなのかはわかりませんが。やってることは同じだと思います。

プレゼンの訓練という見方もできますが、私の印象では「みてみて」という原始的な表現欲求を人に伝えられる形に洗練させる過程の、conduitを育てているのかなという気がします (「プレゼン」と言ってしまうと出力の技法に重点がありそうなので…)

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