2012/10/20
嫌らしい書き方
内田樹さんのエッセーやブログのような「軽い」読み物は、 議論としてはユルくて「ちょっとそれは…」と突っ込みたくなるところが多いが、 あれはそういう芸だと思っている。手法としてはPaul Grahamのエッセイも似たところがある。 直感的な洞察から手持ちの部品を使って議論の骨組みをぱぱっと組み立てて見せて、 一つの見方の提示として読めば興味深いけれど、現実の問題にそのまま当てはめようとすると 多分強度が持たないだろうなというところ。でもそれは本人も百も承知で、 必要ならば他の人が突っ込んで補強してくれるだろう、ってとこまで (意識的にか無意識的にか)計算しているのだろう。
だから私も、まんまと載せられてるんだろうなと思いながら時々突っ込んでいる。
ただ、今回のこれはちょっと違った意味で気になった。
想田和弘監督の、平田オリザ氏についてのドキュメンタリー『演劇1』『演劇2』に寄せた文である。 これを読んで私も映画を観たくなったので、その点においてはこの文章は成功している。
気持ち悪いのは、オリザ氏の方法を説明するにあたって、 「欧米」を持ち出しているところとだ。
まず、オリザ氏がスタニスラフスキーシステムを批判するという文脈で、次のような解説が挿入される:
スタニスラフスキー・システムはいわゆる「新劇的」演技の基本をなす演劇理論である。自分が演じる役柄について徹底的なリサーチを行い、その役柄を俳優が生身に引き受け、舞台上では、その人物がその劇的状況に投じられた場合に、どのようにふるまうか、それを擬似的に再現しようとするのである。「役になりきる」演技術である。古くはマーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、近くはロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノら、ハリウッドきっての「名優」たちがこのメソッドの信奉者だった。
ここで説明されているのはどっちかというとリー・ストラスバーグの『メソッド』だよなあ、 とは思うけれど、まあ両者の違いはこの文脈では枝葉の話だし、 不特定多数に説明しなきゃならないとしたらこのくらい大まかでも問題ないだろう。 だからこの解説が内田氏によるものなのか、映画内で説明されたものなのか、 それはどちらでも良い。
その後で、内田氏は自身の発見を述べた後、こう記す:
こういう「虚の過激さ」というのは、欧米のドラマツルギーのうちにはまず見ることのできないものである。
かの地では、「自分はこう思い、こう感じる」ということを明晰判明かつはっきりした声で言わないと「存在しない」かのように扱われる。だから、過激さを表現しようとする人々は目を剥き、声を荒立て、口から唾を飛ばし、汗をたらし、舞台を走り回るようになる。でも、想像すればわかるけれど、みんながそういう演技をする芝居に私たちはたぶんすぐに飽きてしまう。
この文は、それぞれを単独で取り出せば、間違いとは言えない。 「欧米のドラマツルギー」に観られないのは、内田氏がオリザ氏に見出した「虚の過激さ」 であるし、 「目を剥き、声を荒立て云々」と言った演技は(それがどこで成されたものであれ) すぐに飽きられてしまうというのも正しい。
ただ、これらをつなげてさらっと読むと、
- 平田氏のやり方 (内面を考えず表象を厳密にコントロールする) と「欧米のやり方=スタニスラフスキーシステム」 が対置されている
- 「かの地では〜そういう演技をする芝居」がハリウッドに代表される「欧米のやり方」である
ような印象を受けてしまう。芝居をやってる人ならおかしいとすぐに気づくけれど、 そうでない人はなんとなく上のような印象を刷り込まれるのではないか。
その印象が正しくない理由をいくつかあげておく。
- スタニスラフスキーシステムは、まさに「過激さを表現しようとする人々は目を剥き、声を荒立て、口から唾を飛ばし、汗をたらし、舞台を走り回る」という「退屈な」芝居を避けるために生まれた方法論である。
- 内面から作るのでなく、外見から作ってく芝居(outside-in)は欧米にもある。というかここで「欧米」と一緒にするのがちょっと不可思議で、自分の印象ではヨーロッパ(特にイギリス)ではoutside-inも結構根強いと思ってた。ヨーロッパで芝居したことないから聞き齧りだけど。
- アメリカに限っても、「役になりきる」メソッド以外に主要な演技術はあり、 メソッド批判者も多い。 マイズナーテクニックもスタニスラフスキーからの派生だけれど、 マイズナーアクターとメソッドアクターのアプローチの違いはジョークのネタになるほどだ (どちらもinside-outではあるけれど)。
内田氏の中にぼんやりとした「欧米の芝居」の印象があって、 それが意図せず現れてしまったのではないか、という気がする。 なぜなら、この文章から「欧米」への参照をすっぱり抜いたところで、 紹介文としての強度はいささかも変わらないからだ。
自説を主張するエッセイにおいて嫌いなものをそれとなくけなすこと自体は 当人の勝手であるけれど、オリザ氏や想田和弘監督の仕事にかこつけて 印象操作を忍び込ませるのは、たとえそれが無意識のものだとしても 「嫌らしさ」を感じる。
Tag: 芝居
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