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2013/05/23

アイディアの価値

https://twitter.com/yukihiro_matz/status/337009085570482176

@yukihiro_matz アイディアなんかに価値はない。1時間も頭をひねれば10や20のアイディアは出せる。価値があるのは、それを実現すること、細部まで仕上げること、継続すること。

「アイディアに価値はない、実行(遂行)が全てだ」というのは良く言われることで、 私もそれに同意するのだけれど、 出発点となるアイディアが無ければその後の実行も無いわけで、 「アイディアが無価値だ」と言い切ってしまってよいものか、昔は逡巡があった。

今はこんなイメージを持っている。

果てしなく大きな倉庫いっぱいに何かの種子がある。 ほとんど全て雑草とかどうでもいい木の種だが、 非常に稀に、金のなる木の種が混じっていて、十分に手をかけて何年も苦労して育ててやれば 素晴らしい実りをもたらしてくれる。ただし種の段階や若木の段階では、 他のどうでもいい草木とまず区別がつかない。 さて、この倉庫の前で種を一山いくらで売ってたら、いくらで買う?

宝くじと違ってアイディアは(何でも良ければ)無数に考えることができるので、 当たりの期待値はいくらでもゼロに近づく。 つまり、アイディアに価値はないと言うとき、それは正確なゼロってわけじゃなくて、 ある一粒を取ったときにそれが「当たり」である可能性は極めて小さいと言っているわけ。 そして、それが当たりかどうかを確かめるにはたいへんな労力が必要。

後から振り返って、あのアイディアが素晴らしかった、あるいはまずかった、と評することは できるけれど、それは今、目の前にあるアイディアを評価するのとは全く別の基準だ。

(あと、希少な「当たり」ではないけれど頑張って育ててやればそこそこ実るって種はそれなりに混ざっているので、自分で育てる苦労を計算に入れて一山のアイディアの価値を見積もる、っていうのはあるな。自分で育てるつもりがない/育てる力が無いのに、たまたま思いついたアイディアをさも大事に抱えて盗まれることを心配する、っていうのは滑稽だけど。)

(種の段階で盗まれることは心配しなくていいけど、苦労して育ててやっと最初の花が咲いてかなり見込みありそう、ってわかる段階で根こそぎ持ってかれるって心配はある。)

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Tag: ものつくり

Past comment(s)

みね (2013/05/22 08:20:09):

はじめまして。 「アイディアが無価値だ」ということの別の解釈として、アイディアは複製・移動しても損耗しない、従って無価値と考えうるというのはどうでしょうか。正確には、アイディアにも損耗が伴うはずなのですが、このような議論では無視してよいほど小さいはずです。 アイディアを具現化する過程には不可逆な損耗があるはずなので、そこには価値が発生する、と。コストがかかる=交換価値が発生する、と考えられるという解釈を考えました。

masterq (2013/05/28 09:01:35):

まーつまり考えてもしょうがないということですね。。。

shiro (2013/05/28 09:29:38):

種を前にしてあれこれ皮算用するんじゃなくて、どんどん蒔いて育てながら考えましょうってことですな。

yamasushi (2013/10/26 00:40:43):

「アイディアを出せる」、「アイディアを実現する」は「傾性概念」であり、「価値がある」は「理論的構成概念」と見なせると思います。「傾性概念」は特定の条件で観測できるが、それが何かの原因であるとは言えない。「優秀な技術者が優れた製品を作る」が何も言っていないのと同じです。(優れた製品を作るのが技術者の優秀さですから。) 「価値がある」を測定する尺度がはっきりしないので、Matzさんの発言は何も言っていないのとかわらないです。 「心理学における構成概念と説明」http://www.obihiro.ac.jp/~psychology/kiyou95.pdf

shiro (2013/10/26 04:58:14):

ところがこの浮世ではそのはっきりしないものに値段をつけて取引しようって人がいるわけですよ。まあ「そこに値段をつけるのは無意味であるから、別に意味のある尺度を使って値段をつけましょう」で当事者を説得できるならいいんですが。

yamasushi (2013/10/26 10:08:52):

ええ、それはそうなんです。ですが、Matzさんが書いていることは、結局のところ「わたしはアイディアを実現するのが好きだ」でしかないですよね。「好き」を「価値がある」に言い換えただけなんじゃないでしょうか。アイディアを出すのが好きなひとは「アイディアを実現することに価値はない」と言うでしょうね。

shiro (2013/10/27 00:08:14):

Matzさんの発言の文脈はわからないですね。ただ、「価値はない」と言い合ってるだけでは済まなくて実際に価値づけをしなくちゃならないって場面は現実にとても良くあることで、その際に揉めないようにあらかじめコンセンサスを取っておきたいってポジションはあり得るでしょう。そんでもってそのコンセンサスをアイディア出す側に置くか実行側に置くかという選択は、現実の経済にも影響を与えるんじゃないでしょうか。私はそういう文脈を暗黙のうちに想定してます。

yamasushi (2013/10/27 03:04:56):

「価値がある」の仮の尺度として貨幣を使おうということでしょうか? 確かに貨幣は究極のメディアではありますね。その立場では「売れない芸術」には「価値がない」ですね。(「場合による」ということなんでしょうけれども。)

shiro (2013/10/27 05:20:40):

ここでの「価値」は一般の市場で値付けされる必要はなくて、当事者間げ合意できれば良い話です。売れない芸術は、本当にこの世の誰も価値を認めない駄作なのかもしれないし、価値が分かる受け手と出会ってないだけかもしれない。

でもこの話の文脈はもっと卑近な例で、例えば何人かでプロジェクトをやってそこそこいけそうになったときに、アイディアを出しただけで手を動かしてない人の貢献をどう評価するか、とか(評価尺度は貨幣に限りません)。あるいはパーティでちょっとアイディアを話したら相手方がそれを実現しちゃった、アイディアを盗まれた、と騒ぐ人とか、そういう話をしてるんですよ。

yamasushi (2013/10/28 03:29:29):

「価値」という単語にこだわるならば「倫理」を無視できないです。プロジェクトが結果的に「悪」をなしたなら「実行者」が「責任」を取るのでしょうか? 「善い」ことを実現した「実行者」が評価されるなら、「悪い」ことを実現した「実行者」は糾弾されるべきでしょうか? 「悪い」アイディアをだして「手を動かさない」なら「善」でしょうか? (まあ、「場合による」わけです。だから「価値」などという言葉は安易に使うべきでないと考えます。)

shiro (2013/10/28 06:48:17):

yamasushiさんのこだわりが「価値」という言葉にあるのは分かりましたが、その例はよくわからなかったです。現実でも実行者がまず責任を負うようになってますよね?「直接手を動かさなかった」人が責任を問われるのは、何らかの形で手を動かした人への影響力がある場合であって、悪事のアイディアをパーティでぽろっと話した人が罪に問われることはないでしょう。それと、「悪くなければ善である」というロジックもよくわかりません。

yamasushi (2013/10/28 10:25:59):

つまり、「誰でも閲覧できる場で3Dプリンタで銃を作るアイディアを出したひと」よりも「銃をプリントしたひと」のほうが「悪」であるということでしょうか? 前者は「悪」とはいえず、むしろ技術の可能性を示した「価値のある」行為と言えるのでしょうか? 「価値」について語るときには「倫理」とセットにしなければならないように思います。また、「価値」という言葉には様々な意味があります。「交換価値」だけが「価値」ではなく、交換できない価値もあります。「悪くなければ善か?」についてですが、わたしも悩んでいることです。(なので「?」をつけました。)

shiro (2013/10/28 11:52:00):

3Dプリンタを見て、思いつきで「これで銃が作れるんじゃね?」ってアイディアを口にする人は大勢いるでしょう。それが悪であるとは全く思いませんし、何らかの価値をもたらす行為とも思えません。そんなのは毒にも薬にもならない与太話です。

実際にそれで銃を作れることを確かめたり、設計図を公開したりするのは、「手を動かした人」ですから「実行した人」になります。その「実行」は世の中に(良かれ悪しかれ)影響を与えるでしょう。

yamasushiさんは、前者の、ただ思いついたことを言うだけの行為も、何か世の中に影響を与えると思って色々考えていらっしゃるのでしょうか。

それから、「悪くはないけど善でもない」(毒にも薬にもならない)ものの存在を認めるなら、「悪くなければ善か?」などという疑問は存在しえないでしょう。逆にそういう疑問があるということは、世の中の存在はすべて悪か善かに分類できるのではないかと悩んでいる、ということですか?

yamasushi (2013/10/29 00:49:39):

「世の中に影響を与える」ことができる人が言う「思いつき」が世の中に影響を与えているように思います。つまり「影響力」のあるひとの発言はすべて「実行」とみなされます。また、大勢のひとの「与太話」が「実行者」を産むのではないかと思います。大勢がお互いに結びついていないならば「毒にも薬にもならない」です。大規模ネットワークでの「与太話」が「毒にも薬にもならない」のかということです。多少話がずれてしまいますが、「悪くはないけど善でもない」という存在の件は「無関心は罪である」という主張をする意見があり、これについて悩んでいます。わたしたちは世の中の事象すべてに関心を持てませんが「無関心」が「悪の実行者」を生み出す土壌となったとしたら、「無関心は罪」になり得るのだろうかと。

shiro (2013/10/29 03:08:10):

話が逸れてきているので、このエントリの話題に収束させませすね。

大勢の人の与太話が実行者を産む、というのは、そういう大きな時代の流れがあるという意味で、私もあり得る話だと思います。実際、善きにせよ悪しきにせよ世の中を変えるようなアイディアというのはたった一人から出てくるものではなく、同時多発的に出てくることが多いように思います。

これは逆に考えれば、「あなたがある時思いつきで口にしたアイディアが将来実現されて世の中を変えることになったならば、同じ思いつきを口にしてた人は既にたくさんいたであろう」ということで、つまり、「あなたがそのアイディアを出した」ということはさほど重要でなくなる、ということです。

何かヒットする商品が出た時に、「俺も5年前にそのアイディア思いついてたわー」って言うことに何の意味もないよ、というのが、このエントリで言ってることです。

「俺が」ではなく多くの人が似たようなアイディアを口にしている、そういう時代の流れがある、そういうった話はこのエントリでは扱っていません。その話がしたいのなら別のところでやりましょう。

また、発言の影響力の大きさというのはありますが、それも別の話です。先の私のコメントで触れているように、何らかの影響を及ぼすことができるならそれは単なるアイディア出し以上の話です。

で、このエントリで扱っていることに沿う形で、yamasushiさんの意見をまとめられたらまとめて頂けますか。

yamasushi (2013/10/29 11:22:28):

「アイデアを出す」、「アイデアを実現する」は比較できないものであり、それを比較する場合には「尺度」が必要だということがわたしの考えです。どちらもある状況において行動した結果です。ただ、時系列に並んでいただけの話なんではないでしょうか? 「アイデアを実現するひと」の「状況」をつくったのが「アイデアを出したひと」というだけのことです。どちらに価値があるかを言うのは「好き嫌い」の問題になるということです。(なので、「当事者間の同意」ということになるのですね。) 「いまヒットしているアイデアは自分が思いついていた」と発言することについては何も言っていません。アイデアを評価するかどうかというよりも、「アイデアを出す」と「アイデアを実現する」という行動を評価するには「尺度」がいるだろうという話でした。 前掲の渡邊氏の論文にある「性格心理学」の問題によくにていると思いコメントしました。

shiro (2013/10/29 15:54:37):

なるほど。確かに「アイディアを出す」にしても、根拠無く全くの思いつきで発言されたアイディア、自分の経験に裏打ちされてかなり詳細まで見えているアイディア、さらいには既に手を動かしながら具体的に浮上してきたアイディア、これらはその具体化の様相において大きな差が有り、一様に扱うことはできませんね。そこが程度問題であるというのは確かにその通りです。

一連の「アイディアの価値は?」という議論は暗黙に、このスペクトルのうち特に裏打ちされる具体性を伴わないアイディアについての話です。それは、実際にそういう具体性の無いアイディアをさも大事であるかのように振る舞う人を見聞きしたことがあり、少々うんざりさせられているっていう共通の経験があるためじゃないかと思います。したがって程度問題ではありますが、「実行を伴わないアイディアを出す人」に関してそれなりに業界内で共有されるイメージというのはあるのですよ。

ある分野で経験のある人が、その長年の経験から浮かんできたアイディアを語る場合は、むしろその経験がある程度「実行済み」としてカウントされる感覚ですね。(それに、経験のある人は自分のアイディアがどのくらい具体性を持ったものであるかわかるので、具体性の裏打ちのないアイディアをことさら大事なものであるかのように言うことはあまりないでしょう。)

yamasushi (2013/12/11 07:02:25):

「アイデアの価値」について「種と果実」を喩えに使った時点で成果物を重視しています。アイデアについてはロスチャイルドの「二本腕のスロットマシン」が例えに最適ではないでしょうか?(「使える!確率論思考」(小島寛之)で知りました。現論文をググってみました。 http://www.econ.yale.edu/~dirkb/teach/pdf/rothschild/two-armed%20bandit.pdf のようです。(未読)) アイデアには二種類あって実現の道筋がわかるものとそうでないもの。道筋がわかるものは成功確率がわかっていると言えます。道筋がわからないものは成功確率がわかりません。実現の道筋のわかっているアイデアを実現しようとして得るのは成果物です。実現の道筋のわからないアイデアを実現しようとする行為で得るのは成果物と成功確率についての情報です。この「成功確率についての情報」に価値を見出すかどうかということになります。「アイデアを出す」という行為はスロットマシンを提供することです。そのスロットマシンで賭けをするのが実行者です。アイデアを出すことに価値があるとすれば、「スロットマシンの代金」という喩えになりましょうか。

shiro (2013/12/11 18:18:20):

なんかイメージに食い違いがあるみたいなんですが、私は「成功確率についての情報がわかる」ことも立派な成果だと思います。「やってみてはじめてわかること」が果実、「やってみる前の思いつきの段階」を種、と言っています。

Two armed-banditの論文読みましたが、まさしくその「どっちのスロットを引くか決めてやってみること」が現実に価値 (profit/lossの意味でのgainではなく、worthの意味)あることではないですかね。

yamasushi (2013/12/29 22:39:51):

なるほど。わたしは小島さんの新書でしか知らないので曲解していたのですね。(論文をぼつぼつと読むのですが、わからないことばかりで読み進みません。英語がダメだからということもあります。)アイデアを出すしかしないひとにとって、アイデアを口に出すというのは「やってみる」に相当すると思います。「手が動かない」のは怠惰からというだけではないです。(具体的な状況について書くと脱線しそうなので自粛します。) もやもやしたものを言語化するということは自分に対する告発です。アイデアしか出さないひとは、バカと呼ばれることを覚悟してバカなことを言うのです。バカと呼ばれないように準備して発言することとは種類の違う行動です。

shiro (2013/12/30 00:50:23):

なるほど、yamasushiさんの言わんとするところがわかってきました。

行動にはいくつかのレイヤがありますね。個人のレイヤでは、確かにアイディアを他人に向けて表明するというのも一つの行動です。そのレイヤでは、それが一歩前進となる、価値ある行動と言えるでしょう。

小集団のレイヤもありますね。新しいアイディアを口にしにくいような雰囲気の集団で、思い切って口に出してみたら皆が乗ってきてものごとが動き始めた、とか。このレイヤでも、アイディアを口にすることは価値ある行動ですね。

今回のエントリは、スタートアップとかOSSコミュニティみたいに「アイディアはいくらでもあって、動くものを作ることが重視される」というレイヤに特有の話かもしれません。

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