2017/06/11
夢と仕事
数日前に、ゲームのイベントでの特別公演として舞台にアンサンブルで出た役者さんが、 公演後に報酬額を知らされ、 稽古に1月かけたのにこれでは生活できない、と嘆く趣旨のtweetをして話題になった。 (その後、該当tweetは消されている。)
これに対して、 「役者が喰えないのはわかりきったこと」 「やりたくてやってるんだから無名時代に貧乏するのは当然」 「もともと採算取れる舞台なんてほとんどない」 といった反応が大量に寄せられた。
もちろん役者が喰えないというのは事実なんだけれど、 芝居では喰えないからといって、待遇の改善を求めてはいけないということにはならない。 このことが、業界の外の人のみならず、 芝居に関わっていると思しき人の一部にも理解されていないようなのが気になった。
その根本には、「芝居をすること」と「仕事として芝居をすること」との混同があるのではないか、 と感じた。
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「役者として生きてゆく」(Living as an actor)というのは、職業ではなく、生き方の問題だ。 喰ってゆけるかどうかは関係ない。 喰えないと割り切り、本業を持って、余暇で表現活動をしても良い。 いつか喰えることを夢見て、バイトしながら頑張っても良い。 どういう手段を選ぶかに優劣はない。ものすごく上手くても、 自分のやりたい表現をやるために、敢えて仕事としての演技を選ばない人だっている。
「役者として稼いでゆく」(Making a living as an actor)というのは、 エンターテインメントビジネスとして動いている主体(興行主や製作元)から、 演技の専門家として依頼を承けてそれを届け、報酬をもらうということだ。
役者として稼いでる人はもちろん、役者として生きてゆくことを選んだ人だから、 自分のやりたい表現というのを持っているだろうし、 仕事を通じてそれを実現してゆこうとするだろう。 けれど、ビジネスとしての仕事の依頼主は、 役者がやりたい表現をするために金を払っているのではなく、 専門職として依頼した技能を提供してくれることに金を払っている。 たまたま、 役者に自由にやりたいことをやらせることが即ビジネスになるという幸運なケースも無くはないが、 原則として、依頼された仕事に自分の「やりたいこと」を擦り合わせるのも、 雇われた役者の技能の一部であり、稼ぐためのテクニックのひとつだ。
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日本にある「劇団」の多くは、 主催者がビジネスをするために役者を雇うという形にはなっていないはずだ。 運良く観客が動員できて、喰えるくらいの報酬が分配できることもあるだろうけれど、 興業が赤字だから報酬が少なくてもしかたがない、と考えるなら、 それは純粋な「仕事としての演技」ではない。 やりたいことをやるために、それを実現する劇団という場に、 「仕事であったら貰えたであろう報酬との差額」を出資しているということだ。 最終的に劇団として喰えることを目指すとしても、まだ喰えてない現状ならば、 各劇団員は「劇団運営」というビジネスの出資者でもある。
出資者と考えれば、報酬が少ないとか待遇が悪いと文句を言うのがおかしいのは当然だろう。 待遇を問題にする時、 役者が出資者でもある劇団のようなケースは最初から対象外だ。
だからといって、劇団でやる芝居の価値が低くなるわけではないのは勿論だ。 ビジネスの構造が違うというだけである。
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劇団ではないプロデュース公演で、興行主が営利目的ではなく別の何かを実現したくて、 「予算が無いから十分な報酬は出せないんだけれども、出演してくれないか」と 頼まれることはあるかもしれない。
その「実現したい何か」に賛同するなら、やっても構わない。 「仕事であったら貰えたであろう報酬との差額」は 「興行主が実現したい何か」に対する寄付と考えてもいいし、 それを通じて自分が経験を積める、勉強代と考えてもいい。
この場合も、待遇問題の対象外だ。
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しかし、興行主が営利目的である場合(舞台自体がペイしなくても、 それが商品の広告として機能している場合を含む)に、 「あなたはまだ有名じゃないから」と極めて低い報酬しか提示されない、 というのはどういうことだろうか。 或いは「勉強になるから」「これで認められれば道が開ける」等と言われるかもしれない。
そこには欺瞞がある。
本当に、興行主が「専門家としての報酬を満額支払うに値しない」あるいは 「まだ一人前でない役者に勉強させる」と本気で考えているとしたら、 売り物を作るのに不完全なパーツをそうと知りつつ使っている、ということになる。
他の仕事でもOJTがあるじゃないか、と思うかもしれないが、 役者は舞台に上がってしまったら替えが効かない。 「ああ、やっぱりいまいちだから第2幕からベテランに交代だ」ってわけにはいかない。
演技はナマ物だから、思ったように力が発揮できず不本意な結果になることもあるだろうし、 一か八かこの役者が化けることに賭けてみる、というやり方もあっていいのだけれど、 それでも当初は商品を作るに足る技能を提供することは期待しているわけで、 専門職にふさわしい報酬を提供することは前提である。 それでダメなら次から使わなければいい。 ダメかもしれないから割り引いておく、というのは、 興行主が自分がかぶるべきリスクを被雇用者に負わせていることになる。
興行主が、いやそうではない、 商品として成立させられると考えたからオーディションでその役者を採用したのだ、 というなら、 「経験になるから」と報酬を値切るのは、騙しているだけである。
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やりたい人の数に対して、演技の仕事は少ない。 大部分の役者が喰えないというのは必然的な帰結だ。
だからといって、興行主が仕事としての演技の報酬をきちんと払わないのは、 観客に対して不誠実であるか、役者に対して不誠実であるか、その両方か、のいずれかである。
営利ビジネスでない演技に関してはこの限りではない。 とにかく芝居をやりたいからと身銭を切ることには何の問題もない。 また、商業での成功を目指して自分が出資する側にも回ったっていい。
けれどそういったケースと、 商業作品に対して技能を提供し報酬をもらうことを、 誰よりも役者の側が混同してはいけない。 その場合の不当な待遇に対して「芝居なんて喰えないから仕方ない」というのは、 不誠実な興業主を許容し、やりがい搾取を許すことになる。
Tag: 芝居
峯島雄治 (2017/07/25 00:26:55):
shiro (2017/07/25 03:48:50):