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< SAG Conservatory Class | Gaucheの遅延シーケンス >

2018/07/01

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

アニメ版のほう、ネット配信に来てたのでふと見てみた。 良作だと思った。 ただ、これは戻れない過去からかなり距離を置いたおっさんだから感じることであって、 青春真っ只中にいる視聴者には受けないのかもしれないなあとも感じた。

以下ネタバレ。

岩井俊二のドラマ版からの変更として目につくのは、 一回の「if」による単純分岐を見せるのではなく、 自らの意志で繰り返し再試行することで望ましい結果を求めてゆく という「ループもの」にした点だ。 でもただのループものはもうありふれている。 本作が巧みだと思ったのは、 そもそも再試行していないという見方ができるように作ってあること。

主人公が、最初にヒロインのなずなが親に連れ去られるのを見た後、謎の球体を投げる、 そこから先は現実ではない、という解釈が可能だ。 (そういうヒントが散りばめられている。)

この解釈を取るなら、主人公は、気になってた女の子が親友の方を誘ったことを知り、 親に連れていかれるのを何も出来ずに見て、自分の無力さを知り、そのやり切れない思いから 「もしあの時ああしていたら」という自分に都合の良い世界線をずーっと妄想していたことになる。 そういう妄想、ある程度年食った観客には身に覚えがあるのではないか。少なくとも自分にはある。 最初の巻き戻し以降を全部主人公の妄想と思って見るとこれはもう青春の痛さ全開、 黒歴史を見せられて悶えるしかない。

新学期に、学校をサボりたくなるのも無理はない。

ところで、どの時点で妄想は現実に戻ったのか。花火師が球体を打ち上げ、 フレネルレンズのドームが壊れる部分で現実に戻ったことを示唆する描写がある (風力発電の回転方向や、花火の形状)。 主人公は自分の無力さを思い知ることで友人達に先んじて子供から一歩踏み出したわけで、 友人達が花火を横から見て、主人公一人が下から見た、 という現実があったと考えるのはテーマと整合する。

なずなと主人公は海で実際に会ったのか。 自分の限界の自覚をテーマとするなら海中のシーンが現実だとするのは都合が良すぎる。 一方で、全く会わなかったとすると救いがなさすぎる。 現実には、親と和解して海に来ていたなずなとたまたま会って 言葉を交わした程度(「今度いつ会えるかな」)の現実があった、 と想像しておくくらいがちょうど良いのかもしれない。

この、現実と妄想の境界のぼかし具合に、実写ではできない表現を使っていて それはさすがだなと思ったのであった。

Tag: 映画

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