2010/11/18
引き算の技術
前のエントリの最後に書いた、表現と技術の話なのだけれど、 別エントリにしてもう少し考えてみる。
表現について、しばしば技術と創作者の内面の表出 (「ソウル」とでも言おうか)を 対置させて、後者を優先させるような意見を見ることがある。 確かにソウルのない技術だけの作品を見ても、感心することはあれど 魂を揺さぶられることは無さそうだ。
けれども、技術に頼らずにたぎるソウルをそのまま出せばいいんだ、 ということにはならない。もちろん媒体ごとに必要最低限の技術というのは あるけれど、それとは別に、「内面のソウルを『そのまま』出す」ということが 出来るというのは、そこに技術があるからだと思う。
UHで受けたfilm actingのクラスでは、「仮面を取ること」が目標とされた。 もちろん前のエントリで論じたように演技には色々なアプローチがある。 ただ、カメラでの演技においてはできる限り(役者自身の)仮面を取り去ることが 良い結果をもたらす、というのは経験的事実だ。
クラスではメソッド、マイズナー、さらにはoutside-inなど いろいろなアプローチを応用してシーンワークをやったんだけれど、 そういう全ての技術は、キャラクタと演技の間にある役者の仮面を 取り去るためのものだった (なお、キャラクタ自身が仮面をつけている、 ということは往々にしてある。というか現代劇ならほとんどそうだ。 それは別の話。)
技術というのは内側から外側への表出を修飾するもののようにとらえられるかも しれないが、実は「何もしないでいると、表出を邪魔してしまうもの」を 取り除くのにも技術が必要なのだ。
実際、これまで受けた芝居の訓練の大半は、新しいものを付け足す技術ではなく、 邪魔なものを取り去る技術であったように思う。
ピアノをさらっていて、どうやったら指が速く動くのだろうとずっと思っていた。 指定速度でメトロノームを鳴らしてみるけれど、どこをどうすればそこに 届くのか見当もつかない。
最近ようやく気づいたことがある。「finger dexterity」みたいな 単一のパラメータがあって、それを上げてゆくんじゃなくて、 逆に、指を速く動かすことを妨げている具体的な要因をひとつづつ見つけて 取り除いてゆくことが、結果的に速く弾けることになるんだと。 最低限の筋力が足りてない、という場合は増強が必要だろうけど、 あとは基本的に引き算の技術になるんじゃないかと。
ショパンのOp10をさらっている頃は手首と腕に力が入ってるのが原因だと思ってて、 手首の脱力にこだわっていたんだけど、それだけだと速度が頭打ちになった。 Op25の時に、前に書いたように視覚に頼って弾いているのがボトルネックになっているのに気づいた。 親指の使い方にも問題があった。
上手い人が弾いてるのを見ると実に軽々と、自然に弾いているように見えるけれど、 「自然に」弾くためにはこういった工夫をひとつづつ積み重ねてボトルネックを 解消してゆくしかないんじゃないだろうか。
引き算の技術の結果は、最終成果物に目に見える形では含まれない。 わかってる人が見れば、そこに至るまでにどれだけの障害を除かなければならなかったかを 想像できるのだろうけれど、プロセスを知らない人には「素直に自分を出しただけ」のように 見えるだろう。技術に走るより、こっちの方がいいよね、と思うかもしれない。
でも、技術が見えないむきだしのソウル、というアウトプットは、 実は膨大な引き算の技術の結果なんじゃないだろうか。
自分がやったことのない分野について、具体的な引き算の技術を想像することは 難しいけれど、少なくともそこに「自分には見えない技術が投入されているかもしれない」 ことは忘れないようにしたい。
2010/11/18
表現と演技
ちょっと引用が長くなっちゃうけど、いいことが書いてあるだけに 「自分定義」な用語についてひっかかった。
kawagucci's Weblog経由で 『大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか』
ここで、私が「表現」というのは、 内にある想いを外に出して通じさせる行為だ。
芝居で言えば、 自分の中にある、 悲哀・憎しみなどの想いを、 表情・声色・身振り・手振り・行動などで表して、 見えるカタチにして外に通じさせる。
一方で、私がここでつかう「演技」の定義は、 あくまで自分だけの定義だが、
実際そうではないのに、 技術を駆使して、見る人に、 本当にそうであるかのようなふりをして見せる行為だ。
「表現」する場合、
まず、自分の中に、本当に悲しみの気持ちを しっかりつくる必要がある。 自分の中にないものは、表現できないからだ。
生きていれば、喜怒哀楽、善意・悪意、美・醜、 いろんな気持ちを体験してきているはずだ。
そこで、 自分の経験・記憶の引き出し・想像力も総動員して、 自分の中の、どっかなにかから悲しみを引き出してきて、 生で、リアルな、悲しみの気持ちを 自分のなかに湧き起こす。
一方、「演技」をする場合。
ほんとうに悲しむ必要はない。 悲しいふりをすればいいのだ。 ただし、見る人に説得力があると思わせるレベルまで。
そのレベルに達するには、 高い技術・能力・計算が要る。
日ごろから 人は悲しいときどんな表情や態度をとるのか、 見聞をひろめ、研究し、 「肩を落とすんだな」とか、「目はうつろにする」とか、 「泣き声は張り上げるより抑えたほうが、より悲しく映る」 とか、試行錯誤を積み重ね、技術を磨いて、 いざとなったら、さっと説得力ある演技が できるようにする。
「演技」にいろいろな定義はあるだろうけれど、 芝居で使う場合には上のような使い分けはしない。
上で書いてある「表現」と「演技」は、 どちらも演技のアプローチとして認知された方法だ。 前者の手法を "inside-out"、後者の手法を "outside-in" と呼ぶ。 メソッドアクティングはinside-outの手法のひとつで、 引用で説明されてる「表現」もメソッドアクティングに近い。 マイズナーもinside-outだけれど、自分の中に特定の気持ちを作ることよりも、 その場の状況に自然に反応して出てきたものは何であれ正解である、という 立場か。
outside-inの手法は引用で説明されてる「演技」のように形から 入るんだけれど、「ふり」に止まらず最終的には内面につなげるところまでやる。 説得力十分なほどの悲しいふりをしていたら、実際に悲しくなる (あるいは、他の何かしらの感情が出てくる)ので、それをまた外面へと フィードバックするってこと。
スタニスラフスキーには両方出てきたと思う。 メソッドの影響でinside-outの方が強調されがちな印象もあるけれど、 私の知る演技の先生は皆「どちらもやって、自分に合うやり方を採用すればいい」って スタンスだ。というのは、実際、役者によってどういう手法でうまく ゆくかはバラバラなのだ。メソッドだって評価が両極端に分かれがちなのは、 それで素晴らしくうまくゆく役者もいれば、全くうまくいかない役者もいるから。 手法だけを取り上げて優劣を論じることはできないのだ。 大事なのは、特定の役者が、特定の手法を使って「良い演技」ができるかどうかってこと。
あと、引用元の文章の中では「技術」という言葉を後者の手法に 寄せて使っている感じなのだけれど、inside-outの演技にだって技術はある。 上のふたつの手法の対立は「自然」vs「技術」っていうことではない。 内面を「自然」に溢れさせるのにも「技術」が必要なのだ。 (より正確には、マイズナーのクラスの先生の言葉を借りれば、 「技術なんて無くても自然に出ちゃうならそれに越したことはないけれど、 芝居続けてれば自然に出てこない時ってのは必ずあるし、 その時の助けとして技術はとても役に立つ」ってところか)。
キャリアの最初から最後まで、全て自然体で表現できる天才はいるのかもしれないが、 他の多くの人にとって、常により良い表現、新しい表現を目指してゆけば乗り越える壁が 次々と現れるはずで、それを乗り越える工夫ひとつひとつが「技術」であるはずだ。 その技術の中にはinside-outの手法もあればoutside-inの手法もあり得るだろう。
内面の表現を重視するのはいいけど、それが技術と対立して語られると 技術軽視につながりそうなので残念。 自分の内面を「自然に表現している」ように見える表現者も、 きっとその人なりの技術を死に物狂いで磨いているはずだと思うから。 (本人は「楽しんでやっている」と思ってるかもしれないけど)。
2010/11/16
オーディオブックとオーラルコミュニケーション
今朝、NPRのMorning Editionを聴いていたら オーディオブックの話題が出ていた。 米国ではオーディオブックはポピュラーで、ベストセラーになるような本なら 大抵オーディオ版も発売される。 私もキングのオーディオ版はいくつか買って読んだ(聴いた)ことがある。 キングの場合、当初オーディオ版しか発売しないやつもあったし ("Blood and smoke" とか)。
市場もそれなりの大きさになるので、有名な役者が読むこともある (Keith Richardsの自伝『Life』はJohnny Deppが読んでるとか)。 これまたキングの作品中には主人公がオーディオブック向け朗読を専業でやってゆくって描写も出てきたりする。
で、オーディオブックが日本に比べて米国で一般的な理由は、車での移動が多いからだと 思っていた。他の国のことは良く知らないけれど、米国だと日常の通勤だけでなく、 丸一日から何日もかけて車で移動したりする機会もそれなりにあって、 そういう場合に耳からインプットできる大量の何か、に対する需要というのは 高いだろうと思う。
でも今日NPRを聴きながら、別の要素もあるかもしれないと思った。
これまた他の国のことは知らないので日米間だけの比較になるけれど、 米国人はとにかく電話で何でも済ませる。窓口までわざわざ出向いても、 辺鄙なところだと窓口の人に権限が無くて、「ここの電話から コールセンターにかけて手続きしてくれ」なんて言われることもあり、 電話越しの英語に慣れるまでは苦労した。 いろんな手続きがわざわざ出向かないでも出来るっていうのは 確かに便利ではある。銀行の振込みだって電話で出来てしまうのだ。 まあ最近はネットが使えるようになったから電話の優位性は下がってるけど。
この、何でも電話っていうのは、やっぱり以前は、国土が広いからだと思ってた。 都市部ならともかく近くの銀行の支店まで100マイルなんてとこに住んでたら いちいち出向くのは大変だ。
けど、オーディオブックと「何でも電話」と合わせて考えると、 言語的、あるいは文化的にオーラルコミュニケーションの比重が(日本に比べて) 高いっていうことがあるのもしれないと思ったのだ。
仕事の話でも、ちょっと込み入ってくると「じゃあカンファレンスコールしよう」 ってなることがとても多い。メールの方が記録に残るから私は好きなんだけど。 ちなみに同じビルディングで仕事しててちょっと廊下を歩けば直接話せるって 場合でも電話で済ませることが多いので、やっぱり対面と音声の比重が 日本に比べて音声の方に傾いている気がする。
声により多くの情報を載せている、と言うこともできるかもしれない。 これも関連してるのかどうかわからないけれど、オーディションとか 稽古中にディレクターが「じゃあちょっとNYCアクセントでやってみて」とか 「南部アクセントでやってみて」なんて注文を普通に出して、それをまた 普通にやっちゃう役者が多いのにびっくりする。私はもちろん日本語訛りしか できないけど。(あ、『Mainland Education』の時は「台湾訛り」を 指示されたっけ。) 実際、アクセントはそのキャラクタの背景を示唆する重要な情報になる。
声優という職業が日本では成立していて米国にはないのも何か関係があるかもしれない。 声にあまり情報を載せないのが日本の文化であるとすれば、 声だけでの演技が普通の芝居とは別のものとして発展したとしても不思議はない。
他の国や言語圏ではどうなんだろう。
ちなみに私が聴いたキングのオーディオブックで特に良かったのはこの二つ。 キングの文体と語り口が良くマッチしていて、より想像力を刺激される。
2010/11/14
好きなことと職業
小説をほとんど読まなくなって数年が経つ。海外小説はちょこちょこ読んではいるけれど、国内の小説に関してはほぼ全滅だ。仕事がらみでないかぎり、手に取ることはない。なぜならやはり純粋に楽しめないからである。批評したり、学んでしまったりと大変面倒くさい。イライラもひどければ、おもしろければおもしろかったで、ひどいジェラシーに襲われる。
しかし好きなものを職業にするというのは、「自分がもっとも好きなものを、もう純粋に楽しめなくなる」「自分がもっとも愛したものを、もっとも憎悪するようになる」という悲劇やリスクがつきまうことでもある。ピュアな心を失うというか。
こういう話は何度も聞いたことがあるし、 いかにもありそうなことだと思う。
けれども一方で、スティーヴン・キングは小説を読む楽しみについて 繰り返し屈託無く語ってるし、実際相当読んでるんだよね。
まあ、「キングは別格なのだ」という解釈もありえなくはないけれど、 職業を広げて考えると、例えばプログラマ業界だと、 仕事でもコード書いて趣味でもコード書く人というのは珍しくはない。 いや、「読む」と「書く」の違いが無いとだめか。 でもプログラミングを職業にしたから純粋に人のプログラムを 楽しんで読むことができなくなった、とか、楽しんで使うことができなくなった、 なんてことはあんまりなさそうだ。
プログラムは元々読んだり使ったりして楽しませるものじゃないから違うかな。 ならビデオゲームなんかどうだろう。ゲーム制作を仕事にしたら 純粋に楽しめなくなった、っていう人、いそうではあるけれど それが大多数であるという感じもしない。 仕事でやってるから普通の人とは違うところが気になるとか ついつい分析してしまうってのはあるけど、 何だかんだ言ってもそれなりに(時間が許すなら)みんな楽しんでやってる気がする。 (ゲームやってる時間が無くなるのでできない、というのは別の話だし)
好きなことを職業にしてしまうことで、純然たる受け手という立場を 取れなくなる、というのは多分真実だけれど、それで楽しめなくなるかどうかというと ケースバイケースかな。 「純然たる受け手としての楽しみ」というものに重きを置くかどうか、ってことなのかなあ。
もひとつ思うのは、ひとくちに小説なら小説を書くことを生業としてます、と言っても、 それが持つ意味っていうのは人それぞれなんじゃないかってこと。 例えば「もうやめる」と何度もいいつつやっぱり次の作品を作っちゃう人がいて、 きっとそういう人は一生やめられないんだろうなあと思うけれど、 一方では書きたいことを全部書いてしまったとばかり、一時期の作品の奔流が 嘘のように寡作になってしまったり他の分野に転身してしまう人もいる。 後者は「小説家」という枠で見れば「枯れちゃった」ってことになるんだろうけど、 その人の人生の道筋の上では小説家っていうのが単なる通過点に過ぎなかったのかも しれないし。
作品を出しつづけていても、作品そのものを出すことが究極の目的なのか、 実は何か他の目的をかなえるための手段になっているのか、ってあたりは 人それぞれ違ってくると思うし。
「職業にしてしまった好きなことを楽しみ続けられるか」っていうのも そのあたりのスタンスの違いに関連してくるようなしないような。
特に結論めいたことは無いんだけど。職業に関して「夢をかなえる」みたいな ことを聞く度に、職業を終着駅と考えるのは違うんじゃないかなあ、 むしろ一生「途中経過」と考える方がいいんじゃないかなあ、という気がしているのだ。
Tag: Career
2010/11/10
裏拍の練習
KapustinのOp40-6、リズムを改善するにはどうしたらいいかと考えて、 一昨日から裏拍をとる練習を始めてみた。 メトロノームを八分音符ひとつ分ずらして鳴らす。 つまり「1と2と3と4と」のとの ところでメトロノームが鳴るように弾く。
最初はMM=40でも全くできなかったんだけど、慣れるにしたがって 徐々にメトロノームがとに聞こえるようになってきた。 リズムが怪しくなるとシビアにわかっちゃうってのはあるけど、 コツがわかるとそんなに難しくない。今日はMM=96まで。
表で鳴らすとしばしばメトロノームに引っ張られてる感じになっちゃうんだけど、 裏で鳴らしてるとメトロノームに乗っかってる感じというか、こっちの演奏に メトロノームが合わせてきているように思えるのもおもしろい。
Tag: Piano

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