2010/01/10
日本とか海外とかいうより
結局は、自分のスタイルに合った場所を見つけるのがいいってだけのような。 その時に、探索範囲を最初から日本に絞ってしまうのはもったいない、 ってことじゃないかな。
私は東京で生まれ育って、今でも東京は素晴らしく便利な街だと思うけれど、 自分の仕事のスタイルにとってはちょっとノイズが多すぎると感じる。 なので今のスタイルを続ける限りにおいては東京に住むことはもうなさそうだ。 日本に戻ることがあるとしても、東京以外の場所を探すだろうなあ。 けれども息子が将来東京に住みたいと言い出したら、 それはそれでいいんじゃないかと思うだろう。
あと、どうも人には、 「目標をばっちり決めて不退転の覚悟で臨んだほうが成果が出せるタイプ」と、 「その場その場でおもしろそうな方向にふらふら進んだ方が成果が出せるタイプ」が あるような気がする。
前者の人は「逃げちゃダメだ」が信条。後者のタイプの人が 「そっちで展望が無いならこういうオプションもあるよ」みたいなアドバイスをすると、 つい「あっちがダメならこっち、みたいな安易な姿勢じゃ通用しないよ」と口を出したくなる。 一方、前者のタイプの人が「そういう甘えを捨てなきゃだめだ」みたいなアドバイスを すると、後者のタイプは「そうやって自分を追い込んでもつらいだけだし、 だいいち目標が何かなんて最初から決められないよなあ」と口を出したくなる。
たぶん、正解は「当事者のタイプ」×「状況」で決まってくるので、 一律に通用するアドバイスはない。前者のタイプの人が後者のアドバイスを 受け入れちゃうとほんとにふらふら逃げてばかりになるだろうし、 後者のタイプの人が前者のアドバイスを受け入れちゃうと 無理がきて心身を壊すかもしれない。 で、前者の人生でも時には目標設定が間違ってたことを認めて大胆に方向転換 する必要はあるし、後者の人生でも「ここは踏ん張りどころ」という局面はある。
海外に出るっていうのは、数十年前までは前者の人生だった。 覚悟が足らない者は現地での生活にあぶれ、でも戻るに戻れず、消えて行った。 けれども経済状況がめまぐるしく変化する現代なら、 それに柔軟に合わせられる後者のタイプの方が、 むしろ成功率が高いかもしれない。
2010/01/10
らむ太のないしょ話
まだらむ太がうまく喋れない頃。不満があると「きーっ」と叫びがち だったので、耳元で小さく「こしょこしょ」と話す「ないしょ話ごっこ」を やって落ち着かせていた。
そのせいか、今でもらむ太から内緒話をするときは、 「とうさん、あのね、あのね」と耳元に口を寄せると おもむろに「こしょこしょ」と囁いてから用件を話すのであった。
ちなみにすこし前までは「とらんすふぉーまー」に成りきって トラックからロボットへの変形を一生懸命やってみせていたらむ太だが、 最近は「かめんらいだー、へんしん!」と言って見えない敵と盛んに戦っている。
Tag: 生活
2010/01/09
帰属意識に自覚的であること
15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ - Railsで行こう!というブログエントリがブックマークを集めてて、 このエントリ自体については私は対象読者ではないし特に言うことはないのだけれど、 この記事についたはてブコメントの一つが気になった。
人生というのは仕事がすべてではない。海外の外国企業で働くということは、 自分の周りに、自分と同じような経験をした人が殆ど居ないことになる。 これは凄い寂しいことだと、米国に住んでる友達が言っている
これって「日本に住んでいれば、自分の周りに、自分と同じ経験をした人がたくさんいる」と 無条件に仮定してるっぽく読める。あるいはこれを書いた人はそう思ってないのかもしれないけれど、 海外に行くという話をする時によく出会う反応なので、そうだとして考えてみたい。
もちろん、単なるファクトとして経験を列挙すれば、 そりゃ日本で生まれ育ったもの同士の方が重複する経験が多いだろうけれど、 寂しいかどうか、仕事以外の人生が充実するかどうか、 という話をするなら、どうでもいい経験をカウントする意味はない。 良いものであれ悪いものであれ、自分にとって意味をもつ経験が共有できるかどうか、 ってことがポイントだと思う。 そこには「何を重要とするか」という価値判断が入ってくる。
で、そういう点を考慮すると、「日本にいれば『自分が大事に思っている経験』と 同じような経験を、同じように大事に思っている人たちがたくさんいる」とは限らない。 むしろ、ランダムに集めた日本人の集団の中で、そういうふうな共有経験を持てる 人が見つかる可能性はたいして高くないのではなかろうか。 少なくとも私にとっては、子供の頃にいろいろなものを作ったり壊したりした経験を 共有できる人の密度は、日本にいた頃よりも米国の職場の方が高かったし、 芝居に魅せられた経験を共有できる友人は日本にも米国にも同じくらいいる。 上のブコメの「友人」が寂しい直接の理由は、日本にいないからではなく、 国籍関係なく価値判断のウェイトが共有できる集団に属していない、 そういうことではなかろうか。
何を自分のアイデンティティの基礎にするかは人それぞれで、 たまたま日本にいた方が「仲間」がみつけやすいという人も大勢いるだろう。 それはそれで構わない。けれども、自分が帰属意識を感じているものは 本当に「日本」なのか、ということを問うてみるのは意味があると思う。 一人の人間が経験できるのは「日本」の中でもほんの一断面にすぎない。 自分から見えてる日本の中には、過去から連綿と続いてきて誰がみても認識できる 「日本的なるもの」もあれば、歴上の一時期、一地方にのみ存在したローカルな事象も あるだろう。それをぜんぶ「日本」と一括りにして、それ以外を「海外」と 分けてしまうことは、かなり危ういことなのではないかと思う。
なお、海外に住んでみる、ということは自分の感じる帰属意識を客観化するのに 良い方法のひとつだけれど、唯一の方法ではない。日本にいながらでも、 認識のスイッチを変えるだけでいい。日本という国家機構と 日本社会は別物だし、また日本社会そのものも一枚板ではない。 日本社会はいろいろな結びつきをもとにした共同体を内包し、その共同体のいくつかは 日本という国家機構や国境を越えて広がっている。そして人はそのうちのいくつかの 共同体に属している、という意識を持っている。自分が属していると思っている 部分集合はいったいどういう結びつきに基づいているのかを意識していれば、 「海外に行く=日本を捨てる」のような短絡的思考に陥ることはないだろう。
Tag: 生活
2010/01/07
印刷入稿
『プログラミングClojure』印刷入稿完了です。関係者の皆様ひとまずお疲れさまでした。 今月下旬に流通開始予定です。
Amazonのリンクとかは随時追加してゆきます。
(追記2010/01/23 13:03:20 UTC): Amazon予約可能になりました。 プログラミングClojure
Tag: Publication
2010/01/06
定数伝搬とリテラルの破壊的変更
Gauche trunkのコンパイラでは定数伝搬を多少真面目に計算するようにしてるんだが、 うっかりリテラルリストを破壊しているようなケースで見える結果が異なるケースが あったのでメモ。
問題のコードは木の集合を構築してゆくような関数で、 木の根の集合を頭にダミーノードをつけたリストに集めていた。 こうしとくと、木の途中のノード (<value> <child> ...) に子供を追加するのも 新たな木の根を追加するのも(push! (cdr node) element)で統一できるのだ。
(define (foo) (define roots '(#f)) ; #fはダミーノード ... 途中でrootsのcdrが破壊的変更される ... (cdr roots)) ; ダミーノードを捨てて木の根のリストを返す
もちろんrootsのリストは変更されるので上のようにリテラルリストを使っては いけない。 でもGaucheはリテラルリストの破壊はチェックしないので、 0.9までだと一回目はちゃんと結果が返っていた。 (二回目以降はrootsの初期値が変更されちゃってるので結果が異なってくる)。
一方、trunkのオプティマイザは、
- rootsの束縛自体は変更されていない
- その束縛は定数リストである
- 定数リストのcdrは定数である
ということから最後の(cdr roots)をコンパイル時に計算してしまうので、 fooは常に '() を返す。
正しい修正は (define roots (list #f)) とすること。
Tag: Gauche

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