2009/03/17
らむ太語録
「わいとる・たいやー。みてみて。わいとる・たいやー」
わいとるって何だ? ああ、"white wall" かぁ。 Pixarの"Cars"で覚えたようだ。
Tag: 生活
2009/03/06
returnを継続プリミティブにする話
思考実験: returnを関数と思ってみる話 - d.y.d
- 「C や JavaScript 等の関数から返る"return"を、 first-class object と思ってみると面白いんじゃないでしょうか」
- 「"call/cc" って難しいので、継続のプリミティブは "return" ということにしよう。特に手続き型言語では」
- 「難しいのは継続ではないcallccだ…とすると、難しいのは限定継続ではなくshift/resetなのでは?」
おもしろい。
関数型言語だとlexical scopeと関数とがunifyされちゃっているので 「自分を囲む関数」というのをアレするのが面倒だけど、関数がまだ特別な 位置を占めてる言語では案外わかりやすいかもしれぬ。
限定継続の方だけど、関数をまたがったshift/resetっていうのは普通にありそうな 気がする。Kahuaでも使ったし。(Kahuaでの用法は、上位層のシステムと下位層の システムを切り離すのにresetを使ってて、アプリケーション層ではほとんどcall/ccの のりでshiftを使う。resetは下の方に隠れてて意識しない)。
もともとshiftって対になるresetは明示しないもんなんで、そこで無理が来てるのかな。 確かにdynamic scopeなふるまいなんだけど、もともとcall/ccがそういう動作を するからなあ (クロージャ→静的環境のキャプチャ、call/cc→動的環境のキャプチャ)。
Tag: Programming
2009/03/06
日本の定額給付金って給付の手続きを自治体が負担するそうで、 その事務負担だとか振込にする際の手数料だとかでごちゃごちゃ揉めているらしい。
しかし妙な話だ。給付金は自治体予算じゃなくて国庫から出るわけで、 それなら国がやればいいじゃん、と思う。というか自治体と国の仕事の責任 分担がよくわからないなあ。自治体は住民税+交付金で運営してるはずだが、 こういう場合の事務負担義務が交付金に含まれてるってことなのかなあ。 つまり自治体は真の意味での「自治」ではなく、国の出先機関の役割も兼ねていると。
昨年、米国でも似たような給付金があって、うちは3人家族で$900のチェックが 送られて来た。連邦の予算だから連邦が小切手を発行して郵送するだけで、 州や市には何の負担もかかってないはず。 しばしば時代遅れとも言われる米国の小切手のシステムだけれど、こういう時は極めて便利だ。
もうひとつ、郵送先住所は国税の申告に基づいてるから、全世帯が国に 直接確定申告するというシステムも話を単純にするのにひと役買ってる。 日本だともしかして各自治体しか住所を把握してないのかな? (米国の場合、この住所はあくまで国税局やsocial secutiry administrationとの やりとりに使うためのもので、私書箱や外国の住所も許されるので、 住民票のような個人の実際の住所をトラックするシステムとは異なる)。
Tag: 生活
2009/03/01
らむ太語録
私が注意すると、らむ太はこの世の終わりかの如くに大粒の涙をこぼし 泣きながらかみさんのもとへ駆けてゆく。
- 「もう寝る時間だ。遊びはやめてねんねしなさい。」→「うわーん、とうさんが、『めっ』したー」
- 「とうさん、これからお仕事だから今は遊べない。」→「うわーん、とうさんが、おしごとしたー」
- 「とうさん疲れた、ちょっと寝かせて。」→「うわーん、とうさんが、ねんねしたー」
- 「ほらはくしょん出た。暖かくしてねんねしないといつまでも風邪直らないよ。」→「うわーん、とうさんが、しんぱいしたー」
Tag: 生活
2009/02/26
舞台裏を見せる
これまで自分は、作品を創る過程というのはあまり人に見せるものではない、 というような観念を何となく持っていたような気がする。 創作過程というのはいわば舞台裏の話。お客さんは完成した舞台を 観にくるわけで、それがどう創られたかに興味があるわけじゃない。 舞台裏は観客にとって見苦しいものであり、それを見せるのは恥ずかしいことだ、 という感覚だ。あるいは、結局作品自体の評価を決めるのは作品そのものであるべきで、 その作品を産み出すまでにどれだけ血の汗を流したかなんてことは関係ないはずだから、 人に見せるようなものじゃない、という感覚だ。
でもそれはただの思い込みにすぎなかったかもしれない。
ふと気づいてみれば舞台裏を見せることは既にさほど珍しく無くない。 DVD時代になり、大抵のメジャー映画については そのメイキングの過程も観客に届けられるようになっている。 オープンソースの開発もほとんど最初から過程がガラス張りだ。 オンラインの絵画掲示板では絵の出来て行く過程をプレイバックすることで 完成した絵を見ているだけではわからない試行の跡が見られて興味深い。 そして今や、 Paul Grahamのエッセイが書かれる過程すら見えるようになった。
これは良いことだと思う。創作の入り口に立っている人にとって、 完成された偉大な作品というのははるか彼方にあるものだ。 そういうすごい完成形ばかりを見せられていると、自分の手元でようやく創り始めた ものがひどく陳腐に見えてしまい、続ける気力を失ってしまうかもしれない。
けれどもどんな作品でも、最初は荒削りの、粗野で原始的な形態から始まっているのだ。
舞台裏を見せることを躊躇してしまうのは、 それが作品の欠点に対する創る側の「いいわけ」になることを恐れているから、 かもしれない。 けれども、もともと過程と作品は別物だ。過程を知ることで作品に対する理解が 深まることはあっても、至らない作品の至らない部分を創作過程が補えるわけじゃない。
敢えて失敗や迷走の跡だとか、未熟なアルファバージョンを見せることで、 次の創作者がより良いものを産み出せるなら、大いに結構なことだ。
Tag: ものつくり
