Island Life

2008/11/24

はまり中

  • 仕事の都合で新しいビデオカードおよびWindows Vistaが必要になる
  • 今までXPが入っていたディスクにVistaをインストール。 と、ディスク容量150GBのうち128GBしか使ってない旨表示されたので、 せっかくだからとパーティションを切り直して全ディスク1パーティションで使うようにする。
  • Vistaは入ったのだけれど、PCIeに刺したビデオカードを使いたいのに オンボードGPUしか使えない。BIOSの設定はちゃんとしてるはずなんだが、 BIOSが古いのかもしれん。
  • マザボについてきた2000/XP用のBIOS update toolを走らせようと するが、Vistaでは走らない模様。
  • ならばフロッピー経由でやるか、と引き出しの奥からFDDを引っ張り出してきてつなぎ、 やはり探し出してきたディスクを色々試したが、書き込み・読みだしともに非常に不安定で、 bootable diskを作ってもブート時に読めない。ドライブのせいかディスクのせいか わからないがどちらも何年も使ってなかったからなあ。
  • 仕方ないのでXPを再インストールしてツールを走らせることにする。
  • XPのインストールは済むのだがHDDからブートできない。
  • ネットで調べたら、XPで128GB超のパーティションを扱うのには色々問題があるようだ。
  • HDDのパーティションを切り直してXPを再インストール。
  • そのままではオンボードetherが有効でなかったのでマザボ付属のドライバを再インストール
  • …などごちゃごちゃやってたらいつの間にかPICeのビデオカードの方が有効になってた。 わけわからん。BIOSは結局変えてない (もともと正式版の最新リリースが入ってて、 もっと新しいベータリリースが出てたのでそれに変えようとしていた)。

こういうのもなー。つくづく時間の無駄だとは思うけど、たまに手を動かしとかないと 勘が鈍りそうだしなー。

Tag: PC

2008/11/11

Into the Wild

信念のために命を落とした6人 - GIGAZINEでの Christopher McCandless ("Into the Wild" に描かれた若者) の紹介のされかたがひどい。 彼の行動を非難する人は多く、ネタ元の記事もはっきりと 非難する文脈でかかれていて、それはそれで無理もないことだと思うのだけれど、 GIGAZINEの紹介のしかたではただのバカにしか見えないではないか。 そのせいかどうか、こんなブクマコメまでついてるし:

最後の例については男子高校生でも実行しない本当に馬鹿げた行為だと思うのだが、 なんでそういうのをわざわざ映画化なんぞして名誉みたいに取り扱うのかなあ。 死に場所にアラスカを選んだってだけじゃねえか

あの映画が作られた文脈を理解するには、原作の "Into the Wild" を読まなければならない。

原作はChrisの足跡を丹念に追うことで、事件当時の報道の「無知な若者の無謀な冒険」 というイメージとは異なり、実はChrisはそれなりの準備をしていて 経験も積んでいたことが明らかにされている (既に彼は一年以上、 米国中西部やメキシコでサバイバル生活をしていた)。 餓死したのも、食料が見つからなかったからではなく、 食用となる植物と外見が良く似た毒性を持つ植物 (摂取すると吸収が 阻害され、いくら食料を摂っても栄養として取り込めないという症状が出る) を誤って 食べてしまったからではないか、ということだ。映画ではこのへんもさらっと流して あったのでわかりづらいけど。

ただ、原作はChrisを擁護するために書かれたのではない。そもそも原作作者の Jon Krakauerは、一貫して「人間は、理性的に考えればばかげている行動を、すさまじい熱意と執念を持って取ることがある。それはなぜか。」というテーマを 追っているノンフィクションライターだ。"Into Thin Air" ではチョモランマに挑む人々を、 "Under the Banner of the Heaven" では宗教原理主義者を追いかけた。 「なぜか」の答えは出ない。そもそも答えが出るような問いではない。 それでも、読者はJon Krakauerの掘り出した客観的事実およびその過程での 彼の主観的なjourneyを追体験することで、考える材料を手に入れることができる。

"Into the Wild" もその流れの中にある。なぜ、Chrisは社会的価値 (学歴、財産、etc) や家族とのつながりを捨てたのか。 なぜ、Chrisはオーソドックスな冒険家としての修行を積むことなく 荒野に身を投じたのか。単なる家出だとか放浪ではなく、「冒険」である。

"Into the Wild" がベストセラーになったのは、多くの人の心の中に、 自分の身ひとつで自然と対峙して生きてみたい、だとか、 約束された安全と引き換えに自分の中の荒ぶる自然を諦めてしまっているのではないか、 とかいう思いがあるからではないかと思う。少なくとも私はそうだ。 私はそういう火種を、自転車にテントを積んだ小旅行でごまかして鎮めてきたのだが、 なぜ心の中にそういう火種が燃えているのか、その疑問が Chrisの行動への「なぜ」と重なるのだ。

その「なぜ」がショーン・ペンを駆り立てて映画を作らせたのだろう。 Chrisの行動を讃えるためではない。ショーン・ペンもまた、自分の中に燃える 理性を越えた情熱を理解しようとしたのだ。

映画ではストーリーをつくるために、その「なぜ」に一見わかりやすい説明が 与えられてしまっているのが残念だ。原作の流れを汲むなら、 観客が心の中に大きな問いを抱えて映画館を後にするような作品になるべき だったのだろう。が、それでは映画にならなかったのかもしれない。

"..., but attempting to climb Everest is an intrinsically irrational act---a triumph of desire over sensibility. Any person who would seriously consider it is almost by definition beyond the sway of reasoned argument." --Jon Krakauer, Into Thin Air.

Tags: , 映画

2008/11/07

Don't take it personally

真っ赤な論文原稿が指導教員から帰って来たら? - 発声練習

  • 指導教員の指導は論文の書き方、内容、表現に関するものであり、「あなた」に対するものではないので冷静に指摘を受け止めること。

これは論文を書いている学生だけでなく、表現する者すべてにとって切に必要なことだなあ。

去年とったUniv. of Hawaiiの"Acting for the Camera" のクラスを今年も取っている のだけれど、このクラスは厳しい。演技を実際に撮影してそれを見ながら 先生がツボをついた批評をしてくれる。映像が目の前にあるので 自分としても直面するしかない。毎回ぼこぼこにされる感じだ。 (ただ、今回2回目なんで少し余裕をもって参加できているんだけど、そうすると 先生は常に、それぞれの参加者の現在のレベルに対して1ステップ上を基準に した批評をしていることが見えてきたのだが。)

で、先生がしつこく念を押すのが、"Don't take it personally." ということ。 批評の対象となっているのはあくまでその場に出された「作品」であって つくった本人の人格に対するものではない。 「役者の場合はこの違いを認識することがとりわけ重要だ」と先生は言う。 批評の対象となっている映像には役者自身が映っているわけで。画面の 中の自分を指して「ここがまずい」と言われた時にそれをpersonallyに 取らないようにする、というのは確かに少々難しい。

私自身がどうやってるか内省するに、どうも自分は「表現した時点の自分」 と「現在それを批評している自分」とを切り離すことで対応しているような 感じがする。表現した時点で、「外に出された表現」も「その時の自分」も 固定される。一度出してしまったものは取り返しがつかないし、 それを出してしまった自分というものも「なかったこと」にはできない。 その時の自分はそういうものだったのだ、というふうに諦めるしかない。 その上で、「その時の自分」から何を変えたらより良い表現ができるのか、を考える。

以前、就職ネタに触れた時に、自己分析なんてやってる暇があったら 表現しろ、みたいなことを書いたことがあるけれど、そういうことだ。 自分ってどんな人間かを知るには、今の自分を固定して標本にして、 それを眺めてみる必要がある。ところが自分の中でぐるぐる考えている 限り、今の自分と次の瞬間の自分と…が連続的に溶け合って、なかなか 固定することができない。標本にするためには、今の自分と次の瞬間の 自分を断絶させる必要がある。それには、今の自分に出来て次の瞬間の 自分には出来ないことをすれば良い。 「表現し、それを他人に目撃してもらう」のはその手段だ。 他人に目撃されてしまったら、取り返しがつかない。 その取り返しのつかなさが鍵なのだ。

追記2008/11/07 18:46:11 PST:
作品と人格 - 黎明日記

カネもらってちょちょっとやった仕事なら、人格と創作物は切り離される。しかし、心血注いで作った物の場合、そうではない。 [...中略...] このような場合に「人格と創作物は切り離される」と冷徹に言い放つことは難しい。

心情的にはそうだし、たぶんどんなに切り離したつもりでもどうしても切れないつながりが 底にあるはずなんだけれども。

だからこそ、敢えて「切り離す」と自分から決めることが重要なのではないかと思うのだ。 そうでなければ、自分の作品に甘えてしまう危険がある。死ぬまでに一作だけ世に出す つもりならそれでも良いのだけれど、次の作品へと進むには前作で出来なかったことに 直面しないとならないわけで。

たぶん、手放すことが出来るのは、野に放っても根本的なつながりは切れないという ことを信じられるからだと思う。自分がつくったものには、不可避的に自分の痕跡が 刻まれているはずで、それは作品がどう利用されようとも、届く人には届くはずだと いう確信。これが持てない時に、作者は自分の作品をコントロールしたくなってしまうのでは なかろうか。

追記2008/11/08 12:42:03 PST
http://twitter.com/kinaba/status/996240551

自分でフルボッコにできない作品は表現として外には出さない、としてるなあ自分の場合。まあチキンです。長めのブログ記事を書くでも裏で5個は突っ込み記事草稿を書いてから出すとかしてた。

出す前に自分で鍛えとくのは前提としても、自分から見える部分というのは どうしても限られるので、出してみたら思わぬ反応を喰らうということはよくありますな。 (自分と違う見方をしてもらわなければ出す意味が無いとも言える)。 Paul Grahamはエッセイの下書きを必ず信頼できる友人数人に読んでもらって 手直ししてるけど、良い方法だと思う。

あと、ライブで出すものについては「完成形」を持って行くということができない んだよね。練習でいくら納得行くものが出来たとしても、本番で完全にそれを 再現できるとは限らないし、観客の反応まで考えるとむしろ本番では練習の時とは 変えていかないとならない場合もあるし。そこで問われるのは作品そのものだけでなく 作品を載せる土台としてのその時点での自分自身でもある (文章だってそうなんだけど、 ライブの場合の方が明確)。オーディションの後はいつもずしんとくる。 ここで「切り離し」が出来ないと精神的にきつい。

でも人生はライブな決断の連続だ。いつ試されても反応できるように準備しておくことしかできない。

Tag: 表現

2008/11/04

らむ太の遊び

  • ら:(車内で) 「かくれんぼすゆー」 (自分の目を押さえて) 「もーいーかい」
  • かみさん:「まーだだよ」
  • ら:「もーいーかい」
  • かみさん:「まーだだよ」
  • ら:「もーいーかい」
  • かみさん:「もーいーよ」
  • ら:「もーいーかい」
  • かみさん:「もーいーよ」
  • ら:「もーいーかい」

らむ太は「かくれんぼ」を「もーいーかい」/「まーだだよ|もーいーよ」を言い合う遊びだと 思っているようだ。

  • ら:(仕事場に入ってくるとおもむろに) 「とうさん。」
  • 私:「何?」
  • ら:「しめきりー」
  • 私:「うわぁぁぁ」
  • ら:「しめきりー」
  • 私:「うわぁぁぁ」

父親は「しめきり」と言うと慌てるものだと思っているようなのでやつが飽きるまで付き合う。

Tag: 生活

2008/10/11

らむ太語録

  • ゆまに (湯呑み)
  • だいやはー (『Die Hard』)

うまく言えない言葉にはいくつかの規則があるっぽい。

  • 発音しにくい子音の変化:「き」→「し」、「r」→「w/y」、語頭の「ち」→「に」、語頭の「き」→「ち」など。
  • 2音節目以降の子音の入れ替え:「つなみ」→「つまに」
  • 母音の混同 (あ/お): 子音の入れ替えとの合わせ技で「ゆのみ」→「ゆもに」→「ゆまに」

ただ、「ダイハード」が何度言っても「だいやはー」になるのはわからない。 その「や」はどこから来たのだ。

Tag: 生活

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