Island Life

2008/02/16

自分探しんぐ

404 Blog Not Found: 探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない

それでは、なぜ著者も含め自分探しが止まらない人々はそれを止められないのか。

自分を決めるのが、怖いからだ。

そして社会も、自分を決めることを若者たちに強いなくなったからだ。

しかし、0x20歳、すなわち32歳あたりを過ぎても「自分が見つからない」人々は、 無理矢理にでも自分を決めてしまった方がいい。「自分を決めた者」を、 自分探しをしている人々が嗤うのは確かだが、嗤わせておけばいい。

自分がないものに嗤われても、本当は痛くも痒くもないのだから。

元ネタの本は読んでないけど、 自分は決めるものか探すものかって訊かれたら、私は圧倒的に「探すもの」派だなあ。

ただ、「探す」という言葉はちょっと誤解されやすい。「本当の自分」という完成品が どっかに転がってて、それを見つければゴール、みたいな感じにとられるおそれがあるから。

ここでの「探す」は、 木の塊を彫ったり粘土をこねたりして像をつくるとか、そういう感じ。 それは探すじゃなくてつくるじゃないか、と思うかもしれないが、 「もっともふさわしい表現を探す」とか「いちばんしっくりくるデザインを探す」 とかそういう時の「探す」って、「つくる」のとほとんど同義じゃないかな。

「自分探し」をこの意味でとらえると、二つ重要なことがわかる。

  • 探していることはアウトプットを出さないことの言い訳にならない。むしろ逆で、 その時その時の暫定アウトプットを出すことが、探す行為の不可欠な一部である。
  • 探すことに終わりはない。ある時点での到達点は、同時に次の表現に向けた足場でしかない。

こういう「自分探し」なら、止まらないのは大いに結構。むしろ一生探し続けるのが面白い。 探せば探すほど、自分も気づいていなかった新たな自分が、自分の中にもともと 埋まっていたことを発見するだろう。

あと、「自分がない」というのもよくわからない。 私は、自分というのはある人生を表現する媒体にすぎないというような気がしている。 ちょうど、役者が役を表現する媒体であるように。 そこに「ある」ものはあくまで表現された出力であって、その出力の積み重ねが 事後的に自分という存在の特性を規定する。なにも表現しないうちから 自分とは何かを考えても意味が無いことだ。

Tag: Career

2008/02/09

即戦力

なぜ大学で即戦力は育たないか

仕事ぶりを観察させ、少しずつ仕事を任せて、失敗できる環境で場数を踏ませることは、大学ではなく企業がやるべき人材育成だろう。

すぐに結果が出ないと我慢ならないメンタリティ

私も含め多くの人は、目の前の結果・即座に分かる結果に一喜一憂してしまいがちだ。すぐに出る結果でなければ我慢しきれずに、無意味だったとか言い出してやめてしまいがちだ。そんなことで、他人(や自分自身)を伸ばしてやれるんだろうか?

この「即戦力」とか「結果を出す」という話もどうも問題のとらえかたがずれている のではないかという気がする。

私にとって戦力となりそうな人というのは、どんなに小さくてもいいから状況の中で 問題点を見つけだし、解決策を考え、コミュニケーションを取りながら実行し、 評価可能な結果(成功でも失敗でも良い)を得られる人だなあ。特定の問題解決の スキルは最初は低くて全然構わない。例えば経験のないことをやらなくちゃ ならなくなった時、最初の問題の一つは、自分は何が出来て何が出来ないのかを 把握しなければならいということに気づくことだ。 それから、出来ると思ったことをとりあえずやってみて、結果を 検討できること。ジュニアで入ってくる人ならそれで充分だと思う。

ジュニアとシニアに期待するのは結果の確実性と大きさの違いであって、 ものすごく細くてもいいから入り口から結果(良い結果でも悪い結果でも、とにかく 検討できるような結果)までを自分でつなげられることが重要だと思う。 後はそれを太くして確実性を増してゆけばいいだけで。

で、そういうことはやっぱり大学とかでやっとくべきなんじゃないかと思うんだよね。 レポート出した、試験受けた、成績つきました、じゃなくて、 自分はこれでいけると思ってレポートを出した→意外なところで議論の漏れを 指摘されてorz、とか、こんなアクロバティックな手法でいいのかしらん→ ユニークと評価されたやったぜ、とか。そういう、自分で考える・やってみる・ 評価を受ける・検討して次に活かす、っていうサイクルが身についてることが 「戦力」の前提なんじゃないかなあ。(その意味では、大学時代、 レポートにせよ試験にせよ講評が返らないものが多かったのは非常に不満だった。 出しっぱなしで返ってくるのが点数だけじゃ、それは学生の尻を叩いて 勉強させるだけの意味しか無いではないか。フィードバックに耳を傾け、 自覚的にプロセスを改善するという点こそが成長の要なのに。)

もちろん、入ったら直ちにシステムを把握してがりがりコードが 書ける人が今すぐ必要、という要請が出ることはあるが、それならシニアを 雇えばいいんだし、それをしている時間も無ければそういう時のために ソフトウェアコンサルタントが居るわけだ (日本でこういう呼び名が一般的 かどうかは知らないけど、USではソフトウェアコンサルと言ったら 呼ばれるや否や仕様を把握してがしがしコードを書き、 短期間で要請された機能を実装する職人のことである)。 当然、新人よりもはるかに高い料金をチャージする。

いわゆる「即戦力」というのがそういうスキルを指しているとしたら、 ストレートで(社会人を経由せずに)学校を卒業したばかりの新人に それを求めるのは無茶な話だし、新人料金でそういうスキルを得たいというのも 虫が良すぎる。この意味での即戦力はどうしたって実戦経験をある程度 積まないと身につかない。大学をどう変えようが、いきなりそういう人間を 輩出させるようにするのは無理だろう。 (在学中に修羅場をくぐらせて生き残った人間だけ卒業させるとかいう 話ならまだわからんでもないが、そうすると逆にサバイバル能力にだけ 不自然に特化してしまいそうな気もするしなあ)。

Tag: Career

2008/02/08

努力と成功

不倒城: 努力という免罪符より:

「努力したからといって成功するとは限らないが、成功した人は皆努力している」。いい言葉だ。いい言葉なんだが、これ、本当だろうか。

世の中、「努力しないで失敗した人」、というのは多分星の数程いる。ただ、その一方、「努力しないで成功した人」「努力しないで結果を出した人」というのもそれなりにはいるんじゃないか、と私は思っている。

[...]

彼は、運なり天賦の才能に恵まれて、それ程努力をすることもなく何だか成功してしまった。成功の内容はなんでもいい、「大会社の重役になった」でも「Webサービスを立ち上げてみたら覿面大成功して大金持ちになった」でも「東大・京大に受かった」でもいい。

「成功」の定義によるけど、一回ごとの挑戦に対する良い結果というのは運の要素が 大きく絡んでくるので、たまたま結果が出てしまうこともある。 「大金を得ること」を成功とするなら宝くじの存在が努力が不要であることを 示している。

私も昔は誤解していたのだけれど、難しいのは一回良い結果を得ることじゃなくて、 それを続け、積み上げてゆくことなんだよね。

上のエントリでは「東大に受かる」という例が出てくるけど、 当然のことながら、大学でやる勉強って受験勉強よりはるかに難しいわけだ。 (受験勉強は意味のない勉強だって話もあるかもしれないけど、東大は少なくとも 後の人生で役に立たないようなテクニックを覚えなくても受かる。) 就職もそう。問われるのは面接を突破したかどうかなんてことじゃなくて、 仕事場で現実の問題に直面してそれを解けるかどうかってことだ。 もっと難関である、例えば小説の新人賞に入賞したとかピアノのコンクールで 優勝したとかだって、本当に難しいのはそっから先どうやってプロとして 継続してゆくかだ。

ベンチャーで一山当てて大儲けって話だって、 エジケンさんも言ってるけど、 その前に何度も挑戦してることが多いわけで (Paul GrahamもViawebの前に一回 失敗してるしね)。最初の会社で成功した人だって、会社が危機に瀕するような 事態が何度もあって、そこを諦めなかったから成功したわけだ (Cf. 死なないために)。

そういうわかりやすい外面の成功だけじゃなくて、「自分が満足のゆくものを 作れた」という内面的な成功も、ひとつ山に登ったら向こうにもっと高い山が見えて、 もっと先に進みたくなる。

そんで、ひとつの成功ってのを例えばそれまで持っていた値に対してプラス100以上の何かを 得るっておおざっぱに抽象化すると、確かに運だけでゼロからぽんと1000くらい成果を出しちゃう ケースもある。一方で、10000くらいまで積み上げた人が200くらいの成果を出して 成功と騒がれることもある。ただ、0からプラス1000出すよりも、10000からプラス200出す方が はるかに楽なんじゃなかろうか。 (まあ、その10000を維持することとか、10000持っちゃうと立場的に5000の成果を出すことを 期待されるとか、そういうのが最初に言った「継続することが難しい」ってことになる わけだけれども。) だから個々の成功事例を精査すれば確かにほぼ運だけで 出した人はいるだろうけれど、全体を見ると既に高い値を持っていた人が出した成功の 方がずっと多いんじゃないかと思う。

で、そういう人がなんで既に高い値を持ってたかっていうとそれは地味に10とか50とか、 耳目を集めないような地味な成果を積み上げてきたからでしょ。

「努力」という言葉は色々な使われ方をするので私は好きじゃないけれど、 そういう積み上げを努力って言う人はいるよね。

いいとか悪いとか、それが美徳かどうかとかそういう話ではなくて、 単に積み上げがあった方が成功がしやすい、という事実があるだけではなかろうか。

追記(2008/02/09 05:34:49 PST): 当然だけど成功ってスカラ量じゃなくていろんな方向が あるベクタだから、大学だって就職だってベンチャーだってそういう方向で積み上げてって その先に何があるか見たいって人がそうすればいいわけであって、別にそうしなかったから 人生失敗だなんてわけはない。 先への興味がないのに周囲に乗せられて積み上げちゃった人は、 それに気づいた時、虚しくなるかもしれないけれど、 まあ新しい方向を見出した時に積み上げた中から何かしら使えるものは取り出せるんじゃ なかろうか。結局成功だ失敗だっていう話自体、どっちに転んでも人生にとって何かしらの 役には立つもので、むしろそういう話を自分の行きたい方向にどうやって意識的に 「使って」ゆくかってのが重要なんだと思う (たとえば短期的な成功目標をゲーム的にクリアすることで積み上げる行為にメリハリを もたせるとか)。

Tag: Career

2008/02/08

音韻構造の獲得

らむ太に話しかけるときは日本語のみを使っている (混ぜると良くないらしい) のだが、 借りてきたビデオを見たり近所の子供に遊んでもらったりする時は英語も耳にしている。 ただ、それで両方を聞いた通りに覚えるかというとそうでもないようで、 どうやら日本語の音韻構造 (VもしくはCV) が先に頭に刷り込まれたようだ。 英単語を耳で拾う時でも、ぶっくぅ (book)、ぐっどぅ (good)、ばいくぅ (bike) のように必ず後に母音が入る (何故か必ず後にアクセントが来る。ふぁぃやー (fire) とか たぃやー (tire) とかも。)

まあ今年はいよいよプリスクールに入れるから、すぐ英語をピックアップしちゃうだろうけど。

3シラブル以上の単語はまだうまく言えない。

  • ぱぁぽぉ (パイナップル)
  • へぃこーぱ (ヘリコプター)
  • ぷえーぱ (プロペラ)

Tag: 生活

2008/02/07

Paul Grahamのlazy evaluation戦略

先日Arcがリリースされたが、 これまでの言語の概念を吹き飛ばすようなすっごいものを 期待していた人々にとってはちょっと拍子抜けするような小さなものだった。 ASCIIしかサポートしないとか、ドキュメントもソースコードリポジトリも無いとか、 普通のソフトのちゃんとした「リリース」に比べればずいぶん原始的である。

ところがそれに不満を持ったユーザ達の手で、ほんの1週間ほどで Unicodeがサポートされリポジトリが立ち上がりドキュメントも整備されつつある。一種のlazyな戦略が効を奏してる わけだ。

要するに、「リリースするからには、きちんとしてなければならない」 っていうのはある意味杞憂にすぎないってことだ。

もちろんこれはターゲットオーディエンスに密接に関連してて、 エンドユーザに使ってもらいたいならインストールに手間をかけさせちゃだめだろうし、 便利な道具として使いたいのにいちいちソースを読まなくちゃ使い方がわからないんじゃ 使えねぇよっていうような層(私もその一部)へ向けるならリファレンスを整備しないと だめだが、何でも良いから使ってみたいという層向けなら不完全でも晒すことの方が 有効であるということが示されたわけだ。 (これは決してリリースにまつわる諸々の作業を低く見ているわけではない。 実際Gaucheだってできる限りの手間はかけてる。でも場合によっては そういう作業が必須のものであるとは限らないってことだ。)

まあこう書いちゃうと当然のことのようだけど、Paulはあれだけエッセイで Arcに対する期待を上げてたわけで、普通はステークが上がれば上がるほど 「ちゃんとしたものを出さなくちゃ」ってプレッシャーを感じるよなあ。 ただ、その「ちゃんとした」っていうのが何に対してなのか、はよく 考えないといけないね。

Tag: Programming

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