2007/11/19
ハック
本来ハックっていうのは金儲けとは関係ない話なわけで。 ハックが金儲けにつながるかどうかはハックの範疇外の 話なんだよな。P.Grahamがペテンなのは、ハックがあたかも 金儲けに直結するような幻想を生んでるところなんだよな。
ペテンといっちゃぁかわいそうか。ハックと金儲けを 結びつける実験ということにしておくか。
いや、資本主義の仕組みをハックしてるんじゃないの? ハックの対象はプログラムコードだけじゃないって好例。
(追記2007/11/20 16:57:11 PST) バカが征く200711202
Shiroさんのいうように、P.Graham氏が『資本主義をハック する』、あるいは、資本主義のある側面を極端に推し進める のだとしたら、やっぱり自分は『それでいいの?』って いう疑問が湧くんですよ。
PGは戦略的にそういう方向のエッセイを書いてるから、 そういう疑問を持つ人がいるのはバランス的には良いことだろう。
あくまで個人的な印象だけど、Paul Grahamのメッセージは実は非常に 限られた種類の人間をターゲットにしてて、そこにメッセージを届けるためなら それ以外の人々に誤解されても構わないと割り切ってるふしがある。 だから、彼の書いたものを読んでそれは自分向けではない、あるいは みんながみんなそう考えたら困るじゃないか、と思ったとしても、それは正しい。 もともと万人に向けて書かれているわけじゃないから。 (ただ、ある人が対象でないということは、その人が「ふるい落とされている」という ことにはならない。単に対象でないっていうだけ。)
そうやってブロードキャストしたメッセージが埋没している潜在的な ハッカーに届いて、そのハッカーの背中を押すことができれば、 社会が結果的に(ハッカー以外の人にとっても)より良い場所になると彼は思ってるのでは。
で、ハッカーは贈与の文化で動くかもしれないけれど、人の称賛だけを喰って生きて ゆくわけにはいかないわけで。 もちろん有名になるにつれそれに若干の金銭的なものがついてくるので、ハッカー本人が 喰ってゆくことはできるようになるかもしれないが、ではそのハッカーが若い ハッカー達を育てたいと思ったらどうする? 「若いハッカー達が思う存分ハックできる ような社会を作る」というメタハックをするためには、経済を回してゆく手段が必要になる。
「起業→大儲け→新たなベンチャーに投資」というサイクルはそのメタハックにとって たぶん歴史上最も成功したモデルであって、PGはそのモデルをプロモートしてるわけだ。 金儲けはそのモデルによってハッカーによる社会を作るための手段にすぎない。 もちろんそれが唯一の方法じゃなくて、例えばRMSは似たようなメタハックを 全く別の切り口からやっているわけだけど、それはちょうどひとつのソースベースの あっちとこっちを別々にいじってるようなもんじゃないかなあ。
(まあ、PG的なやり方にある種の残酷さがあることは事実。例えばプロのスポーツ 選手とかミュージシャンとかアーティストとかが、そのような人生がいかに素晴らしいかを 語ってより多くの若者がそっちの道を目指すようになったとして、でもその中で成功するのは ほんの一握りであるという事実は変わらない。 そこにはバランスを取るために、「そっちは茨の道だよ」と言い聞かせる大人も必要だろう。 ただ、それでもそっちを目指す人間が増えて、裾野がひろがって頂点が高くなることで、 社会全体としてはより良いものを享受できるようになる。
でも成功オンリーの人生なんてことはそもそもありえないんだから、その残酷さは単に 現実の残酷さを隠してないだけとも言える。まあ、 捨てる神ありゃ拾う神ありで世の中うまく回るもんじゃないかなあと私は 思ってるんだけど。)
Tags: Hack, PaulGraham, YCombinator
2007/11/17
入稿
「プログラミングGauche」ひとまず入稿とのこと。細かい直しはまだ入ると思うけど。 もともとの予定は8月のLLイベントで発売ってことだったから半年くらい遅れて しまった。私がわがまま言って遅らせたんだけど。当初はユーザ視点で書いてもらう のがいいかなと思ってたんだが結局手を出したくなってしまった。 そのせいでGauche本だけじゃなくあちこちの締切をオーバーしていて 大変申し訳ないことになっているのだが、Gauche本そのものについては この半年の作業は無駄ではなかったと思う。 (ちなみにKarettaで読める「立ち読み版」からは 構成も内容も大幅に変わってる。大幅に良くなってる、はず。)
今回は共著だったけれど、それでも本一冊書くというのはしんどいものだと思った。 雑誌の特集記事が短距離走なら本はマラソンという感じ。
ソフトウェアは規模が大きくなると、なるべくモジュラリティを高めて コンポーネント間の依存関係を減らすことで、頭の中に収めておく複雑度を 押えることができる。ところが本の場合、まあどういう性質の本かにも よるけれど、むしろ依存関係がいろいろな層でたくさんあった方が良いんじゃ ないかと思う。物語でいうなら伏線みたいなものだが、技術書であっても 一見独立したトピックを扱っているようでいて前の章で振っといた問題に対して 後の章で意外な解決法を見せるとか、重要なテーマについては表現を変えながら 何度も触れるとか。それをやってると、一箇所直したらその影響が連鎖して 前の数章を手直ししないとならなくなったりする。
良くできたソフトウェアがコンポーネントを線形合成できるのに対して、 良くできた本は非線形の塊、カオスなプロセスだ。 本来はそうやって練って練って最後に落ち着いた平衡状態がベストなんだろう。
今回そこまでやれたかどうかは心許ないが、 一度リリースしてみる良いタイミングではあると思う。
技術書を執筆される方々にお願いしたい10の項目 -- 耳が痛いっす。
Tags: Gauche, Publication
2007/11/11
プライド
理系の女の子が 一部で盛り上がっているがおじさんの出る幕でもないかとスルーするつもりでいた ところに弾さんが参入:
こういう幼少期の「プライド」が本物のプライドに化けるためには、一度「プライド」は徹底的に破壊される必要があるのかも知れない。私にとって、それが大学だった。
このエントリには大いに共感するのだけれど誰もがいきなりバークレーに 行けるわけでもないし、またこの話は元エントリの「東大理系女子」に限らず 大かれ少なかれスケールを変えていろんなところで見られる話なので (「初対面の人に大学名を聞かれて素直に答えられない東大生」、とかね) ちょっと書いてみよう。
弾さんが括弧を付けてる「プライド」は、昆虫や甲殻類の外骨格のようなもので、 特にまだ中身が未完成であるうちに外の世界から身を守るために重要な役割を果たす。 (子供時代のhigh achieverにはおそらく不可欠の要素だろう)。 ただ、やはり昆虫と同じように、中身が成長してきたらそれを脱ぎ捨てねばならない。 ちょうど学部生の頃はこの「プライド」の存在についてアンビバレントな感情を 持つ時期だろう。ずっと自分を支えててくれたものを手放したくない、けれども やりたいことをやるのに邪魔になっていることも感じる。
弾さんのようなショック療法で破壊してもいいんだけれど、問題は普段の日常の 中からいきなりそういう環境へと身を移す機会を誰もが持っているわけではないことだ。 また、やはり昆虫の脱皮と同じように、一度脱皮すれば本物のプライドが手に入るかというう とそんなことはなくて、脱皮してしばらくすると再び面の皮が突っ張ってくるものなのだ。 基本的に「プライド」は身を守る反応だから、何歳になろうとも、生き方が守りに 入れば自然についてきてしまう。(で、歳を食ってるほど「プライド」が破壊された時の ショックがでかいから、ますます守りに入るという悪循環があり得る。)
「プライド」を忌避したり隠したりするのではなく、 春になったらコートを脱ぐように、気軽に脱ぎ捨てるコツを身につけることが肝心だ。
それにはどうすればよいか。方法のひとつは、 モノを作り、それを衆目に晒し、批評に耳を傾けることだ。 あなたがあなた自身をどう思っているかにかかわらず、 あなたの作品は現在のあなたを残酷なまでにはっきりと表現する。 (その意味では 元エントリの gomi-boxさんは良いスタートを切った。ただし「自分語り」は最初の きっかけとしては良いけれど、二度は使えない。)
そうやって「自分が思っている自分」と「表現し得る自分」とのギャップを 何度も感じているうちに、奇妙な主客の転倒が起きる。
自分が作品を作るのではない。何か大きなものが、自分に作品を作らせていることに気づくのだ。
その大きなものに比べたら、「プライド」などはごく瑣末なものにすぎない。 瑣末であっても使える時はある。例えばしばらく表現することをさぼっていると 「プライド」の殻がくっついてくるが、 それは生き方が守りに入っているシグナルとして使える。攻めるばかりの人生も 疲れるので、守りに入ることは別に悪いことじゃない。 ただそれをわかってやっているかどうかは大きな違いになり得る。
(現役東大生の人には、手軽に使えるリトマス試験がある。 大学名を聞かれて、一切の照れもわだかまりも無く答え、 相手の反応を素直に受け取ってそこから自然に話を発展させてゆけるようになったら、 東大生という外骨格からの脱皮は完了だ。)
(追記2007/11/12 12:13:36 PST: 東大とかバークレーとか連呼してるから学歴ネタかと思われる かもしれないけれど、一般的な話をしているつもり。つい自分を属性で語ってしまい (「理系である」「女性である」「中卒である」etc)そうすることに こそばゆい自意識を覚えてしまう、もしくは逆に属性で語ることを意識的に避けてしまう 人にはすべて当てはまる; 別にそれが悪いというのではなくて、 もしそういうことに足を取られる感じがあるとしたら、どうすればいいかって話ね。)
Tag: 表現
2007/11/10
BABEL
"Babel" を観た。すげー映画だと 衝撃を受けた。完成度の高さに。ほんのひとつのシーンを真っ当に作ること がどれだけ難しいかをactingのクラスで思い知らされた直後なだけに なおさら。ハーフマラソンで死にそうになってるところでトライアスロン 10周連続でやってる人達を目にして、ああ、あんなところにはとても 手が届かない、と雲の上を見上げる感じだ。
その後ネットでレビューを見ていたら別の意味で衝撃を受けた。 万人向けの映画でないことは確かだがこんなに評価が割れているとは… でもSICPのレビューも評価が極端に割れてたし、人の世界の見方に影響を 与え得るような力を持つ作品というのはそういうものなのかもしれん。 しかし、「わからない」「期待していたものと違った」とか、 あるいは「理解したけれど共感はできない」という感想は理解できるのだけれど、 「日本パートは不要」とか「無駄が多い」とか、ひどいのだと 「"Crash"の真似」なんていう評を見るとがっくりするなあ。
(ちなみにCrashの公開は2005年中盤。Babelは2005/4の段階の ドラフトの脚本で既に ほぼ最終形と同じ構成になっている。だいたい、製作規模の大きい 映画なら構想のタネから公開まで数年とか普通にかかるわけで、 1年かそこいら公開日が前の映画に影響されるわけないじゃん。 むしろその時の世界の空気によって同時多発的に似たような構想を 得る人がいると考える方が自然だろう)
脚本の完成度の高さは上のドラフトを読んでもわかるが、最終形では さらに刈り込まれているのが興味深い。例えば序盤、Scene 14のAmeliaによる 子供を寝かしつけるための物語などは入れておいたらより「わかりやすく」 なったろうけど、カットしたのは入れなくてもわかるという判断だろう。 とにかくそうやって贅肉をひたすら削ぎ落としているので、 ひとつでもセリフやアクションを見逃すとついていけなくなるかもしれない。 また、先入観無しで素直に見ればとてもわかりやすいのだけれど、 謎解きとか何かを探そうと思って見てしまうと全体が見えなくなって わからなくなるかもしれない。だから「わからない」という感想はわかるが 「無駄が多い」という批評には全く同意できん。
Tag: 映画
2007/11/08
"obvious" と "oblivious"、字面はめちゃめちゃ似てるのに意味がほとんど正反対 なのはなんでだろうと思っていたのだけれど、わかった。 語源的にどうのって話じゃなくて直感的に。
このふたつは本当に紙一重なんだ。あまりにobviousなことは、しばしば背景に 溶けこんでしまって人はそれにobliviousになる。それが何かのきっかけで目から鱗が取れて、 「まえからそこに見えていたのに今やっと気づいた」と膝を打つ。"li"が鱗、あるいは 意識と無意識の間の蓋かね。
Tag: 英語

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