Island Life

< 10年 | こういうのはおもしろい (差別についての続き) >

2013/12/27

サベツダー

人工知能学会誌の新しい表紙について、性差別の観点から批判が出てるという話について。

もう大人の対応である公式コメントが出ているので、 話としては収束してると思うんだけど:

人工知能学会誌の表紙、女性イラストレーターが描いていた

こうしたネット上の反応について、編集委員長の松尾准教授は、次のように話した。

「ネット上で広く議論をしていただくのは有り難いと思っています。学会としては、女性を差別したり蔑視する意図はありません。ただ、そういう意見もあるときちんと受け止めて、今後の表紙デザインを考える上で参考にしていきたいと思っています」

自分は最初の批判を見た時に性役割の文脈で順当な(想定される)批判だなあと思ったんだけど、 批判への反論やそのまた反論を見てると色んなレイヤでの議論が入り乱れてて カオスになってた。

まあどのレイヤで議論するかは自由なんだけれど(感情に感情で返すとかも)、 差別の文脈を踏まえてない意見はどうも的外れに見えてしまう。 わざと文脈を外して茶化してるようにも見えない意見も多くて、 基本的な「議論の枠組み」に結構隔たりがあるんじゃないかと感じた。

自然科学系とか工学系にいると、相対化して抽象する、という操作を良くやる。 「○○が××しているのを描くのは○○差別だ」という命題を見たら、○○や××を変数にして 色々なものを当てはめて不変条件を見つけるとか。 なので、「じゃあ描かれてるのが男だったら男性差別になるの?」といった反応になる。 また、表現者と表現内容を切り離して議論する、という習慣もある。 誰が言ったかではなく、あくまで言われた内容のみを材料として考える。 なので「この表現がダメなら△△にあるあの表現はどうなんだ」という例を持ち出したくなる。

差別といった社会的な問題は対照的に、「誰が」「何について」「どこで」「いつ」表現したか、 という文脈が極めて重要になる。

今回の話では、女性型を描くか男性型を描くか、は対称な話ではない。 なぜなら背景にある歴史やステレオタイプが非対称だから。 なので、描かれるものを入れ替えたらどうなのよ、とする議論は的外れ。 入れ替えたいなら文脈ごと置換可能なものを持ってこないとならないけど、 それはなかなか難しい。

これが学会誌というそれなりに公共性が高い(少なくとも、 学会はどこも性役割について中立であるべきコミュニティとされてると思う)ところに 出てるってのも重要で、 中立性を要求されないコミュニティがやるぶんには全く問題ではないし、 個人的な見解や嗜好を表明することとも別の話である。 (なので、これは表現の自由とは直交する話。ここ重要。 (追記2013/12/31 01:43:57 UTC)完全に独立でないので「直交」は不適切。言いたかったのは、今回の文脈上での表現の是非を議論することは、文脈を外した一般的な表現規制の是非の議論につながらない、ということ。コメント欄の議論参照。) 誰が言ったかが問題の重要な一部なので、「そう言うお前も差別してるだろ」という反論はやっぱり 的外れ。主語は入れ替え可能な変数ではないのだ。

という前提を踏まえて、自分なりにこの手の批判の論理をまとめるとこうなる。

  • ある固定観念 (それが現状の追認である場合も多い) があって、 それによって不利益を被っている集団がある。できれば不利益を減らしたい。
  • 既に固定化されている役割を無批判に描くことは、 多かれ少なかれ固定化の強化につながる。
  • その表現に必要性があるなら (例えば映画や小説などの表現で、現状をありのまま描写する必要がある場合) いいんだけど、選択の余地がある公共性の高い場所で、 わざわざ固定観念の強化につながる表現を選ばれるのは、困るのだ。

批判に対して反論するにしても、このロジックを押さえた上での議論じゃないと 話がすれ違っちゃう。 批判の目的は不利益の解消にあり、表現そのもの是非は二次的である、 というのもポイントで、不利益の解消を忘れて表現の是非だけ論じても意味がない。 (このロジックはまた、根拠ある批判なのか単なるヒステリックな表現刈りなのかを 判定するのにも使える。) 論点は、「そういう固定観念はあるのか」「どういう不利益があるのか」 「表現の必要性は」「公共性は」あたりになるだろう。

まあ、とはいっても固定観念というのは自分で気づけないから固定観念なんであって、 うっかりそれを言っちゃって批判を受けたら、「気づきませんでした、これから気をつけます」 っていうのが順当な対応で、人工知能学会はまさしくその通りの対応をしたわけで、 問題としてはもう収束してる。

自分としては、文脈を切り離す訓練を受けている人と文脈を重視する訓練を受けている人の すれちがいが際立つなあ、と思った事例だったので記しておく次第。

(追記2013/12/29 01:13:31 UTC)続き→こういうのはおもしろい

Tags: 生活, 社会

Past comment(s)

asb (2013/12/28 10:29:50):

美術を学んできた私としては、描かれているものから過不足なく読み解き合理的な結論を導くという方法から、彼女から二宮金次郎のような姿を想像しました。

少なくとも家政婦ロボットとしての彼女という描写はどこにもないはずですが、そういった意見を招く可能性も十分に考えられた以上、仰られるとおり、公共性の高い場所ではその表現の意図を明確に描くべきだったですね。

コンペ形式を続けるのであれば、難しい問題になりますが。

こあら (2013/12/28 11:35:07):

”これは表現の自由とは直交する話。”ってのはどういうことなんですかね? 学会は公共性が高いので件の表現が問題になるのは当然であるってことですか?個人では好きに表現できるんだから学会の表現の自由なんかそもそも存在しないってことになるんですかね?

shiro (2013/12/28 12:14:49):

>asbさん、確かに「表されたものが全て」という立場から、敢えて文脈を汲まずに解釈する方向もありますね。文脈を重視するのは社会との関わりが深い分野かなあ。

>こあらさん、学会ってのは第一に各会員がその専門分野について表現をする「場」であって、学会自体として何かを表現するためにみんな集まってるわけではないですよね。学会が主体となって表現することがあるとすればそれは「どういう場にしたいか」とか「その場から社会にどう働きかけていきたいか」っていうミッションステートメントみたいなものにほぼ限定されるんじゃないかと思うんですが違いますかね。つまり、学会として何かを出すことは常に「うちはこういう場にしたいんです」というメッセージとして読み解かれるわけで、そこに本来の目的(研究成果の発表と共有)とは関係ないバイアスを入れることは、参加者にとっては表現の抑圧として働きます。それは学会としては望ましくないことですよね?

もっとも、影響を直接受けるのは参加者なので、「内輪の話なんだから外野がとやかく言うことじゃない」という議論は成り立ちます。そういう抑圧のある集団が嫌なら参加しなければいいだけなので。そのへんを承知の上で学会として何かを表現するならそれは自由でしょう。

kiya2014 (2013/12/28 12:50:19):

功利主義的に判断するならば、税金が出ているわけでもない小さな学会の書店に並ぶわけでもない小さな雑誌より、サザエさんの家父長制や国会議員の女性比率の少なさに批判のリソースを割いたほうが有意義に思いますね。

ts (2013/12/28 12:51:32):

「そう言うお前も差別してるだろ」 と誰かが誰かに反論している会話が、 私には上手くイメージできなかったのですが、例えば

Aさん「表紙絵は、掃除は女性がやるものだ、という固定観念を助長させるのでやめてほしい」 Bさん「それに気づいて指摘してるAさんも同じ差別心があるだろ。同類のAさんにそれを指摘する資格があるの?」

という様な会話になるんでしょうか。

kiya2014 (2013/12/28 13:02:18):

「公共の場では差別的な表現をしてはいけない」というポリティカルコレクトネスを重視、推進しすぎると、今度は逆に「ホンネ」の価値が上がってしまうのが難しいところで、日本におけるネット言説の有様などはその最たる例でしょう。特に女性蔑視でも拝外思想でもなかった人たちが、2chやまとめサイト等のネットの本音とされているものたちの吹き溜まりに浸り、ミソジニストやネット右翼になってしまう。

kiya2014 (2013/12/28 13:17:08):

結局今回の騒動も、小さな学会のポリティカルコレクトネスを糺せたことは成果ですが、twitterやまとめサイトでの反応を見る限り、観客の大半のヘテロ男性が本音におけるミソジニーを深めたという負の側面が小さな成果をはるかに上回ってしまっていると多います。

shiro (2013/12/28 14:59:44):

>kiya2014さん、そのへんの意見はもっともな話で、公共性をどの程度見るかとかリソースの配分とかそういう議論になったら建設的だと思うのですが、どうもそこに行く前で混沌としてしまってる感じだったので。

>tsさん、どっかでそういう反論を見たんですが具体例は失念してしまいました。差別を構造の問題ではなく個人の内心の問題とすることで、話が相対化されて拡散してしまうってのはちょくちょく見る気がします。

shiro (2013/12/28 15:21:51):

そういえばPaul Grahamの「創業者の訛り」騒動も発言者の立ち位置で意味ががらりと変わる例だなあ。目的のために必要なことに資源を振り分ける

全く同じ台詞を、例えば経済界の重鎮が言ったら、意味が全く変わる。(乱暴に言えば、プレーヤー自身が「現行のルールに不具合はあるけどその中で何とか勝つノウハウはこうだ」と言うのと、ゲームの胴元が「これがルールなんだから従え、文句あるなら来るな」というくらいの違い)。

こあら (2013/12/28 20:33:56):

shiroさんご返信どうもです。 学会のメッセージとは関係ないバイアスをいれないようにするバイアスがかかるので、結局、学会の公共性の程度によって学会の表現の自由は制約されるってことでいいんですよね?ぜんぜん直行してないってことでよいですか?(そもそも何が直行していると主張しているのか明瞭ではないのですが)

shiro (2013/12/28 22:35:12):

「学会の表現の自由」というふうに「学会」を主語に持ってくるのに違和感があるのです。「学会」はひとつの主体として表現の自由の有無を議論され得るものなんでしょうか。「学会に表現の自由はあるか」とだけ聞いたら、参加者の学会内での表現の自由についての話だと私は思うと思います。学会それ自体の発する表現ではなく。

例えば国や自治体が、それ自体を主体としてメッセージを発する時に、そのメッセージに表現の自由が保証されるべき、という議論があったりしますか? あんまり詳しくないのでそのへん既存の議論があるなら教えて頂ければ幸いです。

表現規制というのは個人とか、特定の表現をするために集まった集団がなす表現について、その場を提供している何かがその表現に制限をかけることですよね。場の提供者が、本来の場の目的とは無関係な「ところでうちはこういうバイアスかけますよ」といったことを言い出すのは、むしろ間接的な表現の制限であって、そういった制限についても表現の自由を適用すべきかという議論が出ること自体がわからないです。もちろん各構成員が言うぶんには表現の自由が適用されるわけですが。

ただ、私の論点は「場の提供者のメッセージについて表現を云々することは、表現の自由の規制にはあたらない」ってことなんですが、両者は独立してはいませんから「直交」というのは確かにおかしいですね。素直に「別の話」としておけば良かったかな。

こあら (2013/12/29 01:50:23):

うーん表現の自由についての認識にズレがあったようですね。普通は憲法と法律で保護される範囲の話じゃないですかね。shiroさんはもっと一般化して考えていたと。

 ただ今回は学会が主体となって出した学会誌の表紙についての問題なわけですから場としての学会については論ずるポイントではないかと。

 で自治体レベルの話はともかくとしてある合意に基づいて集まった集団があれば、それが一つの主体として個人がもつ表現の自由と同様のものを想定できるのではないかと。バンド組んだ瞬間に表現の自由がなくなるとかだと寂しいじゃないですか。    で、「場の提供者のメッセージについて表現を云々することは、表現の自由の規制にはあたらない」というのがやっぱりよくわからないんですが、云々するというのは何を指し主語は何になるんですか?(shiroさんの定義によると場の提供者しか規制の主体になりえないわけですから、もし主語が第三者なら当然、規制にはあたらないですよね。)

shiro (2013/12/29 02:25:07):

なるほど。私の言葉遣いが軽率であった点は認めます。やりたかったのは「これは表現規制だろ」という反論を牽制しておきたかったってことです。

上のコメントにある「特定の表現をするために集まった集団」でもってバンドの例はカバーしてます。「特定の表現」ってのも変な言い方ですが、まあみんなで何か一緒に表現したいことがある、というような話です。で、学会ってそうなんですかね? 全員が学会の一部として、「学会としての表現」にコントリビュートするために集まってるものですかね? そうじゃないと思うんですが。私はその性質の違いが、今回の問題の「主語の違い」として決定的だと思うのです。従って今回の「学会誌の表紙」を「同人誌合作本の表紙」と入れ替えることはできないと。

「云々する」の文章は、一般の表現問題について、複数の第三者が「その表現はダメだろ」と声をあげて運動していることに対し別の第三者が「いやその運動は表現規制につながるだろ」と反論する、という構図を想定してます。云々するの主語は第三者ですが、その目的が場の提供者の行動を変えることにあり、それは規制に係わってくる、ということです。元の文章で「~云々することは、表現の自由の規制には結びつかない」とすればいいかな?

こあら (2013/12/29 04:03:22):

 云々の部分は理解しました。  学会の主たる目的は学問ですから、一般的な同人誌と違うのは当然です。しかしながらいかなる団体であれ、ある冊子を発行し、その表紙に何らかの意味をこめた絵・文章を書くことは表現になると思いますし、  もしそれが外部からの何らかの力によって制約されるのであれば、それは表現の自由が規制されたと判断して差し支えないかと。  極端な例をあげれば自衛隊はなんらの表現行為をする集団ではありませんが、もし自衛隊員募集のポスターに萌え絵を使ってはならーん!ということになったら、それは自衛隊の表現の自由が制約されたということです。(もちろんその制約が妥当かどうかは別の話ですよ。)  ですからいかなる団体であれ外部に何かを発信し、それが包括する場や第三者に制約されうるのであればそれは(広義の、そしてshiroさんの定義と同様である)「表現の自由」の問題になりうると考えて差し支えないかと思います。  集団の目的が表現行為でないのだからその集団から発信される表現は表現の自由の問題にはあたらないというのは論理の飛躍のように思われます。

 (まさか、それはないと思うのですが、学会は普通の同人サークルと違って外野からの影響を受けないのだから表現規制にあたらないという主張をされているわけではないですよね?)

shiro (2013/12/29 06:05:55):

なるほど。個人だろうと団体だろうと表現の自由というのがまずベースにあって、その上で団体の特性によって制約を考えるべき、ということですね。

私の主張を言い直すと、原理的に表現に慎重になるべき特性を持っている団体であるから(「場を提供する」という特性をさしています)、そこでの表現の制約を議論することは、ブランケットな表現規制には直ちに結びつかないよ、とすれば良かったのか。

まさか…以降の話はないです。私が考えていたのは、場の参加者=表現する立場と場の提供者=規制をかける立場があった時、後者が勝手な規則を持ち出して「これも表現の自由だ」と言い出すのはおかしいのではないか、という構図です。もちろん立場はスコープのとり方によって変わってきて、例えば学会vs国家というスコープでは前者は参加者になりますね。学会の「場の提供者」の立場を捨象して一般的な表現規制の話につなげそうな議論を一部で見かけたのでそれにこだわっていました。

shiro (2013/12/29 06:11:59):

なお、私が「学会」にこだわった背景には、近年技術系カンファレンスでしばしば取り沙汰された女性が参加しにくい雰囲気についての議論であるとか、より一般に技術系学会で女性参加をプロモートしていこうといった動き (acm-wとかありますよね)といった文脈があります。「学会なんて同好の士の寄り集まり。そんな公共性なんて立派なもんじゃない」とか言ってられる時代じゃないんじゃないか、ってことです。

こあら (2013/12/29 11:07:26):

部分的な応答で恐縮なのですが、 ”原理的に表現に慎重になるべき特性を持っている団体であるから(「場を提供する」という特性をさしています)、”というくだりは自明ではないように思われますがそれはともかくとしてそれは学会には適用されるが同人サークルなどには当てはまらない事柄なのですか?場を提供する点に関しては同一ですよね?

shiro (2013/12/29 12:41:41):

このエントリのトピックに戻ってくるのですが、私の発言には文脈があって、上記コメントで書いたように学会内やアカデミックキャリア内での性差解消についていろいろなところで議論がある、ということを背景にしています。同人サークルでそういう議論があればご紹介ください。無いのなら、「文脈を捨象して変数を置換してはいけない」という本エントリの主題を踏まえた上で、あらためてご質問ください。

こあら (2013/12/29 18:10:32):

性差解消云々の議論があることは少なくともその集団の表現(内向き外向きともに)に制約的に働くと思われますが、なぜ一般の同人サークルよりも規制より遠いというか結びつかないという話になるのか分かりませんね。

文脈の特殊性が大事ならそれをきちんと抽象化して主張との因果関係を明確してもらわないと主張が理解できません。

その因果関係を明確にするために別の変数に入れ替えてこの場合は成り立つんですか?と問うているんですが、この流れが分かりませんかね?置換自体が目的ではないのです。

shiro (2013/12/30 00:13:35):

今回の主題で表現の自由とか表現規制は二次的な話なんですが、そのへんで私の理解がちゃんとしてないのですれ違っているようです。

私のロジックは(1)表現規制にあたるかどうかの判定は、公共性などに照らして変化し得る (2)性差解消が議論されている学会というカテゴリでは、性差助長につながる表現についてよりセンシティブになることが期待され、そのため上記判定についても厳しい方に寄るだろう、という感じです。表現規制とはそういうものじゃないよ、ということでしたらご教示ください。

後半のご質問は今回のトピックに深く係わっていると思います。文脈の特殊性と主張の因果関係は可能な限り明示されるべきで、私の論旨が不明確なのは私が至らないためです。ただ、社会的な事象は一回一回が独自性を帯びています。文脈が完全に同じになることはないからです。変数に別のインスタンスを入れて「これはどうか?」という質問は無数にできますが、そのどれにも、ある程度の類似性、ある程度の違い、それぞれを指摘することができます。きりがないのです。

もちろん社会的な事象からも抽象化して何らかの一般的な原理を引き出すことは重要で、それはそれで長い時間をかけてやる必要があります。けれど、より喫緊の課題として、「今、目の前に有る問題を軽減するにはどうしたらよいか」を考える必要があって、そうするための足場を固めるというのがこのエントリの目的でもあります。

きりがない置換命題に逐一その程度を答え続けることが、果たしてその目的に役立つでしょうか? むしろ質問する側が、「この置換を行った場合、問題は軽減されるだろうか?」ということを自問してみることが必要じゃないでしょうか。今こあらさんと私の間で議論となっているトピックは、表現の自由と性差解消のバランスだと思います。こあらさんが「同人サークルにも学会と同程度の配慮を求めたとしても、表現の自由および性差解消に与える影響は同程度であると私は考える。ならばなぜ同人サークルと学会で扱いに差をつけるのか?」と質問してくれれば、双方の立脚点が明らかになって(バランスをどう見積もるか、という差)議論が進むのですが、立脚点を明らかにせず(=自分が依って立つ文脈を選択せずに)置換した質問だけ投げても議論はすすまないよ、ということをこのエントリで書いているのです。

shiro (2013/12/30 00:41:13):

もうちょっと一般的に言えば、社会的な事象というのは、自分と独立したところにあって客観的にいじれるものではなく、自分がその一部であって、自分の意見の表明は対象に影響を与えます。社会に関しては、全ての発言はポジショントークなんです。それが自然科学や工学との大きな違いです。

従って、あらゆる発言は社会的な文脈とともに、発言者自体の文脈と切り離して考えられません。

文脈を全て明示するとは不可能なので、通常、共有されているだろうとか「相手も自分がどういう人間かわかっているだろう」という点については暗黙にしたまま議論を進めますが、議論が噛み合わなくなってきたらその都度「俺はこういう立場でこれこれを背景として言ってるんだけど」と文脈を明らかにしてゆく必要があるでしょう。

(人文系の論文(一冊の本になってるようなやつ)を読んでると、時々最初に著者がどういう環境で生まれてどう育ったとかパーソナルなことが書いてあって、自然科学系や工学系の論文を読み慣れてる身からすると戸惑うんですが、あれも著者の依って立つ文脈を明示するプロトコルなんだろうな、と今回の議論を通じて納得しました。)

置換質問ゲームは、文脈を明らかにするのに確かに有効です。でも質問者自身の文脈を探すには、質問者自身がその質問に答えないとなりません。

こあら (2013/12/30 09:06:18):

(すみません。改行がうまくできなかったので再投稿します。先ほどのは消してください。)

 問答形式ではshiroさんの論理の詳細を知ることは難しいようですので自分で推論を行って添削してもらう形式がよさそうですね。

 言い方がいろいろ変遷されているのでちょっとまとめがたいのですがshiroさんの主張についての僕の理解をまとめて適切な抽象化を試みましたので確認して頂ければと思います。文脈やタームはなるべくshiroさんに合わせているつもりです。

(あと念のための確認ですが置換可能か不明であることを置換不可能と言ってるわけではないですよね? もしそうなら自分の試みがまったくの徒労になりますので・・・)

■前提事項

・表現規制とは個人や集団がある場でなす表現について、その場の提供者や管理者がその表現に制限をかけること。

・場と参加者のスコープ

 参加者:学会や同人サークルなど・・・

 場:社会とか世間一般

 場の管理者:国家やその他の行政

■shiroさんの主張(言及しやすいように番号付けをしています)

1.ある表現が許容されるべきか規制されるべきかの基準は、場の公共性などに照らして変化し得る。

2.その基準の程度は、より公共的な学会はより厳しく、そうでない同人サークルなどはより緩くなるであろう。

3.第三者が考える基準と表現の主体の基準に相違があり、かつ実際の表現が第三者の基準を超えた場合は議論や反対運動などの「云々」が発生する。

4.ただし、学会の場合は「云々」によって実際の規制に直ちに結びつくことがない。(より規制されにくいと言ってもよい?)

僕としては1,2,3までは順に理解できますが、4に関してはそのままでは論理の飛躍があると感じられますので推論による補填を試みます。

■なぜ4になるかについての推論(一応、ありそうだなと思う順です。)

・そもそも公共的な分、基準が厳しい位置にあるので、たとえそのラインを踏み越えて女性を侮蔑するような表現となったとしてもせいぜい女性型ロボが箒を持っている絵といったレベルの非常に穏やかな表現に留まるので現実問題として規制される可能性は低いだろう。つまり規制に当たっては基準との距離ではなく、表現自体の絶対値が重視される。

・より個人に近いサークルなどより学会は「話が通じる」し、また数的にも少ないから実際の規制を行わなくても制御ができる。(それはそれで広義の規制というか抑圧になるだろうが)

・学会は知識人の集まりであり、彼らが考える基準は一般人などの第三者が考える基準よりも妥当性があると当局が判断する可能性が高いから。(それはそれで別の差別かもしれませんが)

・学会などがもつ公共性により、たとえ表現に逸脱があったとしてもお目こぼしや酌量の余地があるため。

・未然に学会内などで議論していればそれが免罪符として機能する。

・4は自明

以上です。お時間あるときにチェックして頂ければと思います。

shiro (2013/12/30 09:54:13):

記述が変遷してるのは、もともと表現規制の話は主題ではなかったんで、後から思いつくままに補足してるせいです。

整理していただいたおかげで、噛み合わない位置がわかりやすくなりました。

(1) まず、私が「表現の自由」「表現規制」を複数の意味で使ってて混乱を招いていたようです。

  • 「場の提供者を主体とする表現の自由、というのがありえるのだろうか」と言っていた時の表現の自由は、場の提供者がその場において定める自由もしくは規制
  • 「公共性の高い団体の表現について云々することは、一般的な表現規制に直ちには結びつかない」という時の表現規制は、より大きなスコープの、社会あるいは国家による規制

先にコメントしたように、私が表現の自由に言及したのは、2番目の立場から、「一般の表現規制へとつながることが心配なので、公共性の高い団体に対しても表現への配慮を求めることに慎重であるべきだ」という意見を牽制するためでした。一般の表現規制に反対してゆくことは重要だけれども、そのことと「今回の文脈で表現に物言いをつけること」とは別けて議論されるべきだ、というのが、当初「直交」という言葉を使った意図です (両者は独立でないので、「直交」は不適切でしたが)。

一方、前者の「場の提供者」に係わる「表現の自由」についてはこあらさんとの議論の中で私に沸いてきたもので、これは「場の提供者として機能している主体の出すメッセージについて、表現主体(個人、団体)の表現と同じように表現の自由を議論できるものだろうか?」という疑問です。実はこちらの疑問は今回の話題とはあまり関連がなくて、表現とその場というフレームで考えていた私の観念から反射的に出てきたものです。しかしそれを理由付けに使おうとしたために議論のスコープが曖昧になってしまいました。

「公共性」というパラメータを使うことを合意してもらえるなら、場の提供者の議論は不要です。

(「なぜ学会は同人サークルより公共性が高いの?」と聞かれれば、「学会はその中で、性差と独立した議論ができる場を提供することが期待されてるから、性差別を助長する可能性があるメッセージを主体となって発することにはより慎重にならざるを得ないでしょう」と答えます)

(2) ステップ4の議論について

というわけで、ステップ4は私の言いたかったことではありません。そのため推論はどれも無関係です。

敢えてステップ4を作るなら「公共性という文脈の上にある表現の是非を問うことは、その文脈を外した一般の表現規制に直ちに結びつかない」ということです。

それが自明でなければ、「共性という文脈の上にある表現の是非を問うことは、その文脈を外した一般の表現規制に直ちに結びつけてはいけない」と私は主張している、と取ってくださっても結構です。社会についての発言は全てポジショントークなので。

不明確な点があればまた指摘してください。助かります。

こあら (2013/12/31 11:52:15):

(すみません。一回コメントしたのですが、うまく反映されなかったようなのでもう一度送ります。被っていたらすみません。)

ご回答でおおよそshiroさんの主張が理解できました。

確かに、私的な個人と公共性のある団体に対しての規制のあり様は異なるでしょうし、後者の表現に云々することが前者の規制に繋がることにはずいぶん距離があることにように感じます。そのニュアンスを踏まえれば直交という語を選択されたことも理解できます(まあ正確性はともかくとして)。

これで自分の最初のコメント時に感じていた疑問は解消されました。

横道の議論であることは承知していましたが、今回の質問はshiroさんは一体どの程度一貫した主張ができる方なのかなということが気になり、続けさせて頂きました。(偉そうですみません^^;) 年の瀬のお忙しいところ、お手を煩わせましたが付き合って頂きありがとうございました。

ではよいお年を。

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