2014/05/05
空気
(「ロンドン電波事情」から来られた方はこちらのエントリもどうぞ)
「明示されないことを察するのは日本特有の空気読み文化だ」みたいな話を見ると、 日常的に脚本と向き合って 「書かれていない、口にされない、でも察せられること」を探している身としては どうしても口を挟みたくなる。 今取り組んでるのは、イタリア系アメリカ人が英語で書いた脚本だけど、 登場人物の会話は空気読み合いまくりだよ。
最近、日本では国語でこういう非言語コミュニケーションやサブテキストを 扱うようで、これは大変良い傾向だと思う。それを「日本特有の空気読み」に 結びつけるのは間違い。リンク先コメント欄の議論参照:
"Why you took a beat after this line? (このせりふの後の間は何?)" みたいな議論をしてきた後で 上の発端のツイートを見たのでつい色々言及してしまった。
「空気を読むこと」については、日米で差があるわけではない。 差があるのは、読まれる「空気」のあり方なのだ。
ある現象Xに付随する現象Yが一種類しかない場合、 たとえば「Xをする時は常にYが理由である」等の場合、XとYは同一視されがちだ。 そもそも違うものだと意識されない。 (Cf. 分けて考える)。 「空気」が一種類しかないと多くの人が思っていたら、 「空気」と「空気を読むこと」は区別されないだろう。 上のtogetterに見られるそういった反応は、日本では均質な「空気」が広く共有されている、 ということを示しているだけかもしれない。
もちろん、その「the 空気」を無前提に良しとしない人もたくさんいて、 実際、反対意見も多く寄せられてるわけだけれど、 「the 空気」に対する賛否を論じてるだけでは やっぱり単一の空気に囚われているだけだからなあ。
歴史を見ればアメリカだって単一の空気が支配的になったことは いくらでもあるし、現代だって集団を限定すればそういう例はいくつも見つけられる。 ただ、「空気はそれ一つではない」ということを知っている人が 一定以上いれば、主体的に別の空気を選ぶ(それは簡単な道ではないかもしれないけど)という 選択肢が出てくる。そこが文化的な違いになるのかもしれない。
「日本では細かいところまで決めずにお互い空気を読んで仕事するけど、 欧米は最初に契約できっちり決める」というのも良く聞く話だ。
それはそれで事実なんだけれども、これもまた、 アメリカではツーカーで仕事をすることはない、ってことじゃない。 何度も一緒に仕事をして気心が知れていれば、細部を詰めずに見切り発車して 互いに相手の事情を汲んで仕事を進めることだってある。 「話が通じる」とはっきりわかっている範囲では空気読みに期待し、 その外ではルールを明文化する、ってだけだ。
違うのはそのスコープで、アメリカでは「話が通じる、とはっきりわかっている範囲」が 結構狭くて、話が通じない世界がいくらでもあるから、特に事情が無ければ固い契約から入る、 ってことになってるわけで。 日本は逆にその範囲がやたら広くて(もしくは、広いとみんな思っていて)、 話が通じない世界ってのに触れないでも (もしくは、話が通じない世界を「ないもの」として扱っても)そこそこやっていける、 ってことだろう。
Tag: 文化
yamasushi (2014/05/07 11:41:05):