2015/10/30
「腐った翻訳」について
3行まとめ
- 叩き台にするにしても最低限クリアすべきレベルがある
- 原文をすらすら読んで構造を理解できないなら、自分の訳文のレベルを判断できない
- それなら分かる人に判断してもらってクリアするまで何度でもやり直せばいい
SICPについて、既存のフリーの翻訳の質に満足できず、全面的に訳し直した方がいる。
ケチをつけるだけでなく実際に高い質でやりきったのが素晴らしい。パチパチ。
さて、一方で、元の訳を「腐った翻訳」「そびえたつクソの山」等と評していることについて、 これから趣味で翻訳して公開してみようかなと思う人を萎縮させてしまうのではないか、 という懸念を持つ人も少なからずいるようだ。
その辺については次の文章で説明されている:
のだけれど、反応を見ているとこの説明でも受け取り方にすれ違いがあるように感じられる。 そこで、takeda25さんの説明で十分な人には繰り返しになるかもしれないけれど、 ちょっとポジティブなスピンをかけることを試みてみる。 なお、以降で議論する翻訳の質については今回話題になったものの元の訳を特定的に 指しているのではなく、一般的な話である。
フィードバックによる改善
一番誤解されてるなあ、と思うのは、「下手でも何でもまず公開して、フィードバックを受けて 改善していけばいいじゃない」という反応だ。これは話の前提が完全にずれているので、 まずそこを合わせておきたい。
改善して行く叩き台になり得る最低限のクオリティ、というのが存在する。 そこに達していない場合、公開して皆で少しづつ直して行くというのはうまくいかないのだ。
フィードバックによる改善ループが動く条件は、 各フィードバックの独立性が高く、インクリメンタルな変更になっていることだ。 つまり、そのフィードバックを反映することで他に大きな影響を与えることがなく、 またそれが全体の文脈に照らして良くなっていることが明白であるようなもの、 そういうフィードバックならば、寄せられれば寄せられるだけ訳文は良くなってゆく。
ところで文章には構造があり、流れがある。これは多層になっていて、 本一冊として見た場合の構造と流れがあり、その文脈で各章内の構造と流れがあり、 各節内、パラグラフ内、文内の流れが順にその上に載っている。
文章の中で使われている言葉は全て同じ重みを持っているわけではない。 構造の要とか、流れの方向性を決定する言葉の重要性は高い。その言葉の選択を誤ると 流れが不明確になって全体の論旨が曖昧になる。一方そうでない部分の言葉は、 多少入れ替えても全体の構造への影響は軽微で、表面的な印象をどうしたいかという 好みの問題が大きくなる。
訳語がふさわしいかどうかという議論も同様で、要となる部分の訳語の選択が 正しいかどうかとか、直訳に寄せるべきか意訳すべきかというのは、 全体の構造をどう見せたいかという大きな文脈に依存する。つまりグローバルな影響がある。 要でない部分については周辺の文脈だけ見て検討すれば良い。
元の訳文から、 全体の流れをどのように把握してその構造を反映させようとしているかが見て取れるなら、 ある箇所の修正がどこまで影響するかを見積りやすいし、 どちらの方向に修正すればそれが改善になるかも見極められる。 そういう訳文ならオープンソース的フィードバックによる改善はうまくゆく。
けれども、元訳者が文脈を把握してない(ように見える)訳文の場合、 個々の文レベルでのフィードバックは無意味なのだ。 デッサンが狂ってて表現技法も統一性のない人物画で、髪の毛の表現方法をあれこれ指摘するようなものだ。 その箇所だけをローカルに見て表面的なつじつまを合わせられたとしても、 その修正が全体に照らしてどういう意味を持って、本当に改善になっているかが判断できない。 直すとしたら、根本的な方針の確認から始めて全体をいじるしかない。
これは、個々の訳文を取り出して修正してみせても、なかなか伝わらないことでもある。 個々の訳文を切り出した時点で文脈が無くなるので、その修正が単なる表面的な ものなのか、全体の流れに重大な影響を与えるのかがわからないからだ。
自分の不得意な分野で何かアウトプットを出すことを 想像してみれば、誰だってそういうレベルの出力を作り得るというのはわかるだろう。
ただ、そういうレベルのものを晒してはいけない、と一概には言えない。 誰でも最初はそこから始めて、徐々に良くなるのだから。
翻訳にまつわる議論は、単にレベルが低すぎるから叩く、ということじゃないんだ。
翻訳特有の事情
初めて描いたイラストだとか、楽器を始めて1週間で演奏してみた、なんて作品は 上手下手で言えばド下手だろうけれど、 それでも公に表現するということはとても良い行為だと思う。 上手下手とは別に伝わるものがあるし、同じ段階の人の励みにもなる。
ところが、翻訳に関しては極めて特殊な事情がある。
翻訳の対象読者は、その翻訳のレベルを判断できない。
翻訳のレベルを判断できるのは、原文を読んですらすらと構造を把握して 流れを見て取れる人だが、そういう人はわざわざ翻訳を読まない。 またその系として、訳者が「翻訳より原文を読む方がいい」というのでなければ、 訳者自身もまた自分の訳のレベルを判断できない。
他の多くの表現形態では、特に詳しくない人でもレベルのスケールの低い方は見分けがつく (詳しくないとある程度以上のレベルの見分けがつかなくなる、というのはあるけれど)。 ところが翻訳については、原語と訳語の両方に詳しくない人には、 どのレベルにあるか全く判断できないのだ。
下手でも頑張って演奏している動画を見たとき、人は「何を見れば良いか」をわかる。 この段階なら個々のミスタッチを気にするより全体として伝わってくるものを見るべきだな、等。 そして、フィードバックをするなら、細かな指摘よりも大きな部分で改善できるような コメントをしよう、と思うだろう。
でも読者のほとんどが下手かどうかも判断できないなら、 フィードバックの多くはランダムな、枝葉末節の指摘になるだろう。 そして訳者自身も、そのフィードバックが本当に役に立つのか立たないのかわからないだろう。
これでは同じ場所を彷徨うだけで、何も良くならない。
じゃあどうすればいい?
でも、下手糞は公開するなって言いたいわけじゃないんだ。 どんなレベルであれ、最後まで終わらせること、そして公開すること、それ自体から 自分が学べることはたくさんある。
ただ、公開しても役に立たないことがあるという事実は厳然としてある。 「無いよりはあった方がマシ」などと誤魔化すのはやめよう。
じゃあどうすればいい? ひとつ提案がある。
自分には判断できないという事実を受け入れるなら、 確実に判断できる人(=原文を抵抗なく読める人)に見てもらえばいい。 公開の場で腐った翻訳と言われるのがおっかなければ、 公開前に目を通してもらえばいい。
プロの翻訳家や文筆家だって、自分の作品を世に出す前に、信頼できる他人に 目を通してもらうのだ。アマチュアがそうすることをためらう必要はない。
そしてその人に、根本からやり直さないとだめだ、と判断されたなら、 謙虚にそれを聞いて何度でもやり直せばいい。
そう判断されることは、自分の人格が否定されることでもないし、努力が無駄になることでもない。 むしろ、わかる人に判断を仰げるだけのアウトプットは出した、ということを意味するのだから、 それは立派な成果だ。
その成果があったから、スタートラインに立てたのだ。
自分の勉強のためにせよ、翻訳を望んでいる皆のためにせよ、 当初翻訳に手をつけた動機を完遂するためには、そのスタートラインから踏み出さないとならない。 せっかくそこまで来たのに、やることはやった、後はみんなで直してね、 と受け身になってしまうのはあまりに惜しいではないか。
自分の訳文のクオリティが、フィードバックによる改善のスパイラルを得られるのに 達しているのか判断できない、でも公開してマサカリが飛んでくるのが怖い、という人は、 「こんなん訳してみたんだけど、公開して役に立つかどうか、 誰か原文わかる人、目を通してみてくれませんか」と募集してみたらどうだろう。
(なお、自分で判断するためには以前翻訳のセルフチェックというのも書いた。)
派生したエントリ:
ettem (2015/11/03 21:35:47):
shiro (2015/11/04 04:56:23):
shiro (2015/11/04 05:05:02):
Anonymous (2015/11/10 17:58:42):
shiro (2015/11/10 20:40:43):
Anonymous (2015/11/11 07:52:37):
ettem (2015/11/11 08:21:50):
shiro (2015/11/11 12:23:07):
Anonymous (2015/11/11 14:24:35):
Anonymous (2015/11/11 14:26:27):
shiro (2015/11/11 15:15:41):
shiro (2015/11/11 20:22:58):
Anonymous (2015/11/12 03:58:04):
Anonymous (2015/11/12 04:02:50):
shiro (2015/11/12 08:19:20):