2011/10/14
runonce
『プログラミングClojure』に、マルチスレッド環境でも 与えた関数を一度だけ実行するrunonceという仕組みを作る例が出てくる。 似たようなことをGaucheでやる必要が出てきたのでちょいと書いてみた。
runonceは関数を引数に取り、
- その関数が既に実行されたかどうかを調べる関数 (has-run?)
- 初期状態に戻す関数 (reset)
- 引数を与えてその関数を実際に実行する関数。但し、既に実行されていた場合は実行せずに前の結果を返す。(once)
という3つの関数を返す関数だ。
Gauche風に書くとこんな感じになるかなあ。
atom は名前をClojureから取ったんだけど、使い勝手はかなり違うので注意。
Gaucheにトランザクションはないので、atomicな領域で副作用を起こして構わない。
gosh> (define-values [print-has-run? print-reset print-once] (runonce print)) #<undef> gosh> (print-has-run?) #f gosh> (print-once "Aloha") Aloha #<undef> gosh> (print-has-run?) #t gosh> (print-once "Mahalo") #<undef> gosh> (print-reset) #f gosh> (print-once "Mahalo") Mahalo #<undef>
なお、fnが引数を取らず、resetとかhas-run?が不要で 「引数なしの関数を一度だけ走らせれば良い」ということなら、単にdelayを使えば済むのだけれど。 (但し、0.9.2までのforceはスレッドセーフになっていないので注意。 開発版は安全。)
Tags: Programming, Gauche, Clojure
2011/10/13
ピアノレッスン18回目
- 基礎:スケールとアルペジオ@MM=144。家でウォームアップを兼ねて弾くときは流しちゃってるんだけど、いい加減なところはきっちり指摘された。左手が遅れがちになる調がある。全体としては良くなっている。(先生の前では全部の調を弾くわけじゃなく、いくつかピックアップして弾いてる。だいたい、得意な調で慣らしてから、一番苦手ないくつかの調を弾く感じ。 )
- Alkan Op39-2。16分音符のパターンが入る105小節目から再現部の146小節目まで、四分音符=112で。etherealな雰囲気は出てきているが、つい強くなりがちで「softer! softer!」。
- Kapustin Op40-3。家では遅く(MM=58とか)さらった後で速くしてMM=108くらいまでやってるんだけれど、レッスンでMM=100で始めたらピアノの反応の違いに戸惑って途中崩壊。MM=80で仕切り直し。曲によってピアノの違いが極端に大きく感じられるってことはあるんだなあ。
- 同じ曲ばかりやってても飽きるのでそろそろ違う曲を、ということで、来週はベトベンのソナタ17番 (Op31-2) を持ってくることに。この曲はやったことなかったけどそこかしこにオーケストラみたいな響きがあるような気がしておもしろい。
Tag: Piano
2011/10/11
プチ出演情報
- Pa`ahana
昨年撮影したUHフィルムスクールの学生映画が、ハワイ国際映画祭短篇部門 (Pacific Showcase Shorts)に通ってます。私は一言だけ喋ってます。
- Aloha Shorts
ラジオ局KIPOの番組で、近々短い詩の朗読をやります。公開録音は11/6(予定)に HPRのAtherton Studioにて。放送日はまだわかりません。 (公開録音の様子はこんな感じ。これは一昨年の時のもの。)
Tag: 芝居
2011/10/08
評価の受け取り方
批評された時に、それを「自分自身」に対するものではなく 自分の作ったもの、為したことに対してのものである、と受け止めることの重要性については 以前「Don't take it personally」で書いた。
この時は特に、今のあり方を否定するような指摘 (「こうした方が良い」というような) を 念頭に置いていたのだけれど、実は肯定的な評価についても同じくらい、いやある意味 否定的な評価以上に「正しく」受け取ることは難しいかもしれない。
良い評価であろうと悪い評価であろうと、それは自分の外に出たもの、 自分から既に離れたものに対する評価である。 つまり、自分が「既にやってしまった、過去のこと」についてあれこれ言われているにすぎない。 そこでとりわけ良い評価をもらったからといって、そのことが 次に手がけることも良い結果を出す という保証には全くならない。
もちろん、良い評価が無価値だといいたいわけじゃない。 少なくとも、過去にやったその仕事について、やり方なり姿勢なりが有効であった、 という傍証にはなる。それは次にやることについての自信につながるし、 やり方の選択の参考にもなる。良い評判が広がって声がかかることもあるから、 可能性も広がる。
けれども、人生の問題に同じものはひとつとしてない。 たとえ他の全ての条件が同じだったとしても、自分自身は一回目の時と二回目の時で 変化してしまっているから、同じにはなりようがない。 だから、良い評価を受けた結果と全く同じようになって全く同じものを出す、 ということはできないし、 やろうとすれば失敗するだろう。 過去何十回と良い評価を受け続けていたとしても、次にやる時はやっぱり、 霧に覆われたはじめての山道を手探りで登って行くしかない。
★ ★ ★
「今日の舞台のあの演技が良かった」というのは危険な「高評価」の典型だ。 そういう演技というのは、「こうしよう」と狙って作るものではなく、 どうしようもなくそうなってしまった、そう出てきてしまった、というものだ。 同じ動作、同じ声、同じ感情、それを作ろうと意識したが最後、出来なくなる。 (でも、特に撮影では、「全く同じことをもう一回」って何十回か言われるんだけどね)。
毎回毎回、違う要素に、その場その場で誠実に反応して、 結果として前回と同じような(望むらくは、前回を越えるような)アウトプットが 出てくることを祈る、出来ることはそれだけだ。
良い評価は、既に固定された過去のできごとについて、その承認として、 有難く受け取っておこう。未来を見る時には、一旦そのことは忘れる方がいい。
★ ★ ★
何日か前に、「何者かになる」ということについていくつかのブログで 取り上げられていたのを読んで (リンクはどこかに行ってしまった) 何かもやもやしてたんだけど。
「何者かになる」というのもやっぱり評価であって、 それは過去の出力の承認ではあるけれど、 次にやることに何か保証をもたらしてくれるものではない。 「何者かになる」のは副作用のような、たまたま後からついてくるおまけのようなもので、 ついてきてくれればラッキーだけれど、それをゴールにして目指すようなものではない。 それがもやもやの原因かな。
nobodyからsomebodyになる、というのは物語の典型だけれど、 「somebodyになる」というのは物語に落ちをつけるための様式のようなもので、 物語のメインディッシュはそこに至る過程にある。 現実では、somebodyになった後でも人生は続いて行くのだから、 物語の形式だけなぞろうとしたってうまくいかない。 咀嚼して吸収すべきはその過程だ。
まとまらないけど、メモとして書き置いておく。
2011/10/06
らむ太語録
公演も最後の週となり、あと3ステージを残すのみとなった。 らむ太にはまだ早いので芝居は見せていないのだけれど、 以前劇場に連れて着た時に舞台を見せて、「とうさんここでお仕事してるんだよ」と言ってある。 今回の芝居では鬼の仮面をかぶるシーンがあるんだけど、その仮面をかぶって見せたら怖がっていた。
以来、夕方家を空けるのを「おめんをかぶるおしごと」とらむ太は認識したのだが、最近あちこちで
- 「ぼくのとうさんのおしごとはね、おめんをかぶるんだよ。とーってもこわいんだよ。」
と言いふらしているらしい。
Tag: 生活

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