2010/09/25
ではプログラミングは何が特殊なのか
昨日の議論は、「フロー状態」に入ることは必ずしも「人とインタラクションする」ということと排他ではない、というものだった。しかし実感として、「対コンピュータモード」と「対人モード」との切り替えの心理的コストは決して低くない。私もフロー状態を外的要因で切られるとかなりつらいし、時にはなかなかフローに入れなくて頭が石臼にかけられているように感じる時もある。
けれども、フローに入らなければならない職業というのはプログラミング以外にもたくさんある。作家、作曲家、演奏家、画家、デザイナー、役者、研究者。こういう人達が「友人とひとしきりおしゃべりした後だとなかなか仕事が進まない」とか、「仕事に没頭していると社交性が失われてゆく」とか言うかなって考えると…言うことはあるかもしれないけれど、それを職業自体が持つ欠点であるかのようには言わないんじゃないかな。どちらかというとそれは自己管理の甘さの告白と取られるように思う。 (但し、締切りに追われ缶詰になって健全な社会生活が営めない、というのは職種の特定のスタイルの欠点としてあり得る。それはモード切り替えの話とは別なのでここでは置いておく。)
もちろんこれらの職業にもフロー状態とそうでない状態のスイッチのコストというのはある。スティーヴン・キングは確か「原稿に穴が開いてその向こうの世界に入る」という表現を使っていて、これはまさにフロー状態だと思うのだが、なかなか穴が開かずに、白い原稿用紙を眺めつづけるスランプの恐怖についてもまた書いていた。フロー状態に入れないのは何よりも恐ろしいことだから、あらゆる手立てを考えてきちんとフロー状態に入れるようにするのだ。
いやこれらの職業と比べて、プログラミングは特にスイッチのコストが高いのだ、という議論はあるかもしれない。コンピュータに没入するのと、人間的感性が反映される芸術活動に没入するのは違う、とか。頭の中のキャッシュに、膨大な部品からなる論理構造を組み立てるのに時間がかかるのだ、とか。けれども、例えばピアニストは演奏前に膨大な音符とそれらのつながりを頭の中に収めているはずだし、役者は全ての台詞の微妙なニュアンスと、さらには脚本に出てこない登場人物の人生をそっくり頭の中に収めている。それらは感性だけでなく、案外にロジカルな構造を持っているものだ。
中には数学者が困難な未解決問題に取り組んでいる時のように、超人的な量の脳内データ構造を必要とする問題はあるだろう。だが仕事としてひとくくりにした場合に、プログラミングだけが取り立てて、他のフローを必要とする職業よりもたくさんの特殊な脳内活動を必要とするようには思えないのだ。
ひとつ違いがあるとすれば、プログラミングは身体的な活動をほとんど必要としないため、身体的な制限に縛られることが無い点だろう。演技や楽器演奏については、どんなに強大な集中力の持ち主でも体が疲れて集中を切らざるを得ない時がやってくる。けれどそれとて、作家や数学者など、やはり身体的制限を受けない職業は他にある。
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もともとプログラミングにおけるフロー状態というのが言われ出したのは、プログラマの仕事環境の改善に関連してのことだったと思う。プログラミングは、例えば次々割り込んでくるタスクをてきぱきと処理する事務職員の仕事とは根本的に違うのだ、それはむしろ作家や画家のように長く中断されない時間を必要とする仕事だ、だからそのように処遇してくれ、と。
何時間もフロー状態で没頭できるなら、それは望ましい環境が整ったことを意味するわけで。それで社交性が無くなるとぼやかれても、外から見たらなんだかなあ、って感じだ。
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他のフロー職種に比べて職業プログラマというのは歴史が浅く、職業で要求されるフロー状態と社会生活との折り合いをつけてゆくノウハウが蓄積されていない、ということはあるだろうか。
役者にせよ、ミュージシャンにせよ、作家にせよ、仕事としてキャリアを重ねてゆくうちに、生活と仕事をうまく両立させる方法論というのを自分なりに作ってゆくものだと思う。カメラアクティングのクラスではシーンの前に集中するテクニックというのをいくつも教わる。これをやれば確実というものは無いけれど、いろいろなテクニックをヒントに各人が自分なりの集中法を作ってゆくのも、キャリアの準備の一部だ。また、職場においてそういう集中状態を周囲のスタッフがどう扱ったら良いかという知識も共有されている。
プログラマについても、そういう一種の文化の蓄積が必要とされているのかもしれない。
Tags: Programming, Career
もがみ (2010/09/27 09:47:10):
shiro (2010/09/27 13:31:45):